孫権の出生

孫権が誕生した時の記録が残っています。

 

その記録によると、孫権のあごが張っていて、口も大きく

瞳には光が満ち溢れていたそうです。

 

この孫権の容姿を聞いた孫堅は、

「この子はいずれ高貴な位にのぼる」といって大いに喜んでいます。

 

 

また孫権の兄である孫策は、

呉の地盤となる揚州で勢力を大きく拡大しましたが、

 

「国を長く維持できるのは、弟の孫権の方がはるかに優れている」

と統治能力に関しては自分以上に弟の孫権を評価しています。

孫権は酒癖が悪い!

呉の誕生

 

239年4月、夏口と武昌から黄色の龍と鳳凰が出現したという情報が

孫権のもとに届けられます。

 

孫権の臣下らも長らく、孫権に皇帝に即位する事を勧めていました。

 

 

こういう経緯があって、孫権は皇帝に即位します。

呉が誕生した瞬間です。同年9月、都を建業に移しています。

 

これにより名実ともに、魏呉蜀の三国時代が到来したわけです。

周瑜に対して感謝、張昭に対して皮肉

孫権が即位する際に、

 

「もし周瑜がいなかったら、私が帝位につくこともなかった」

と周瑜を懐かしんで、感謝したことがあったそうです。

絶対音感の持ち主、周瑜!?

 

赤壁の戦いで周瑜を信じたから赤壁の戦いに勝利することができ、

そして今現在、皇帝になることができたからですね。

 

曹操との戦いを決意してくれた上に、

勝利を導いてくれた周瑜に対して感謝という感情しかなかったのでしょう。

 

 

一方で孫権は次のような事も合わせて述べています。

「もしあの時降伏していたならば、こうして皇帝になることもなかった」と・・・。

 

この意味は赤壁の戦い時に、周瑜と相反して、

曹操に降伏するように主張していた張昭に対しての皮肉を込めた言葉だったのです。

生涯かけて剛直な態度を貫いた呉の御意見番「張昭」

孫権が皇帝になった事で強くなった呉蜀の同盟

孫権はこれまで呉王として、形上は魏の下についていた形でした。

しかし皇帝になる事で、魏との上下関係が解消されます。

 

そして同時に、魏・蜀と同等の立場になった事で、

自然と蜀との結びつきが強くなっていったのは当たり前のことですね。

 

 

孫権が皇帝に即位した際には、蜀から皇帝即位を祝う使者が呉へ訪れています。

 

その際に蜀の使者である陳震と孫権は天下について話し合い、

その結果、お互いに協力して魏を倒し、天下を二分しようと誓ったのです。

 

その際の分配は、次のようなものでした。

  • 呉/徐州・豫州・幽州・青州を治める
  • 蜀/并州・涼州・冀州・兗州を治める
  • 司州(司隷)に関しては、函谷関を境に分配

 

これ以後、呉蜀は協力しながら魏と立ち向かっていく事になります。