毌丘倹(かんきゅうけん)
毌丘倹は、高句麗討伐を成し遂げた人物で、
魏王朝の為に人生をかけた人物でした。
そんな毌丘倹ですが、魏に仕えていた父である毌丘興が亡くなると、
父の爵位を引き継ぐ形で、当時の皇帝であった曹叡に仕えます。
しかし蜀では諸葛亮が亡くなり、
これに油断したのか、曹叡は名君から暗君になっていきます。
宮殿を増築する為に、民衆に負担を強い、
曹叡に諫言を行う者の多くが処刑されたりしました。
実をいうと、毌丘倹も曹叡を諫めた一人でしたが、
曹叡と毌丘倹が仲が良かったことから罪に処されることはなかったようです。
公孫淵戦での失態
遼東半島で公孫度(こうそうんど)の時代から、
曹操・曹丕・曹叡らに従う形で独立勢力を築いてきた一族でした。
曹操らにとっても辺境であった遼東半島支配は、
効率が悪かったこともあり、曹操らにとってもその方が都合が良かったのです。
しかし公孫淵が、
叔父であった公孫恭(こうそんきょう)から遼東太守の座を奪うと、
事態は大きく変わっていきます。
公孫淵は、完全に魏から自立したいと考え、魏と呉と二股外交を繰り広げます。
この際に曹叡は、不穏な動きを行っていた公孫淵に対応すべく、
幽州刺史として毌丘倹を任命するんですが、
公孫淵自身には、都へ来て釈明するように命令を出したわけです。
しかし公孫淵はこれに従わず、魏に背く事を決意します。
これに毌丘倹が対峙するわけですが、普通に公孫淵に敗れています。
毌丘倹を破った事で強気になった公孫淵は、燕王を勝手に自称します。
まぁこの時代勝手に名乗るのは自由ではありますからね。
はっきりいって、劉備も孫権も袁術も勝手に皇帝を名乗った形ですし。
これに対して曹叡は司馬懿に公孫淵討伐を任せ、
司馬懿も曹叡の期待に応え、公孫淵の鎮圧に無事成功します。
高句麗討伐
司馬懿が公孫淵を討ち果たすと、遼東半島までの支配権を手に入れた事で、
勢いのままその先の高句麗(こうくり)討伐に乗り出します。
この時、討伐を任されたのが、
公孫淵との戦いで失態を演じた毌丘倹でした。
243年、高句麗討伐に出陣した毌丘倹は、
公孫淵との戦いの際の失態を取り返すべく遠征したわけですが、
高句麗の都であった丸都を壊滅させ、
高句麗王の位宮(いきゅう)をあと一歩のところまで追い詰めることに成功。
高句麗王を取り逃がしてしまったことで、
この度の高句麗討伐は一旦終了する事になります。
それでも毌丘倹は、
公孫淵との戦いでの汚名を十分に返せたといえるでしょう。
2度目の遠征で、高句麗を占領
3年後にあたる246年、再度高句麗へ遠征します。
そして位宮軍と対峙するわけですが、毌丘倹が率いていた兵は1万人程度、
それに対して位宮が率いていたのは2万人程度でした。
兵力的に劣っていた毌丘倹ですが、
この兵力をものともせず、位宮を捕らえることに成功します。
これにより高句麗占領を完全に成し遂げたわけです。
諸葛恪を撃退
呉の孫権がなくなると、それを好機ととらえて司馬懿は諸葛誕に攻め込ませますが、
これを迎撃した諸葛恪に大敗をしてしまいます。
その為に諸葛誕に代わって、
文欽(ぶんきん)と共に毌丘倹が呉への対応を任されます。
一方、諸葛誕に大勝した諸葛恪は、逆に魏へ攻め込んできます。
しかし毌丘倹・文欽らは協力して諸葛恪の侵攻の撃退に成功します。
逆にこの敗北をきっかけに諸葛恪は、
一族皆殺しという悲惨な末路を歩むことになります。
毌丘倹・文欽の反乱
司馬懿がこの世を去ると、司馬師が跡を引き継ぐわけですが、
王凌・夏侯玄らが司馬師誅殺を計画した際にこの計画に加担した者らを処刑してしまいます。
またこれに伴い、
皇帝であった曹芳(そうほう)が廃位に追い込まれました。
この時、夏侯玄らと仲が良かった毌丘倹は、
身の危険を感じるようになり、
かつ魏王朝をないがしろにしていた司馬師が許せなくなってきます。
それに追加して、
毌丘倹の息子であった毌丘甸(かんきゅうしゅん)も皇帝廃位に対して激怒し、
父である毌丘倹に司馬師を討つように勧めてきます。
これが引き金となり、毌丘倹は文欽を誘って寿春で蜂起します。
この反乱は6万人~7万人いたようですが、その多くが強制的に連れてこられた兵士で、
その中には農民も多く、また女子供から老人もいたようです。
その為、あくまで数だけ揃えたって感じだったんでしょう。
計画性の薄い反乱だったこともあり、
この反乱に対応した司馬師によってあっさりと鎮圧されてしまいます。
反乱に失敗した毌丘倹は、一族もろとも処刑されてしまいました。
一方の文欽は呉への逃亡になんとか成功しています。
毌丘倹の生涯はこうして幕を閉じたわけですが、
司馬懿が公孫淵を討伐して遼東半島を、
そして毌丘倹が高句麗を討伐した意味合いは、非常に大きかったと思いますね。