楽進(がくしん)

蒼天航路(11巻13P)より画像引用

 

楽進は曹操が挙兵したあたりから既に曹操に仕えています。

 

ただ楽進が小柄な体格だった為、

楽進は戦場で戦う事に向いていないと判断していた曹操は、

楽進を記録官としての仕事を与えています。

 

ある時、楽進に出身地であった兗州陽平郡で兵を集めてくるように命令したところ、

1000人の兵士を引き連れてきたことがあったようです。

 

この時、楽進は記録官としての仕事ではなく、

戦場での活躍を期待して武人として楽進を改めて取り立てています。

身を危険に晒して手柄を上げ続ける

それからというもの、楽進は様々な戦いで先頭に立って戦い、

誰よりも早く敵軍に攻撃して功績を上げ続けます。

相手は袁術・呂布・劉備と・・・

 

 

200年、曹操が袁紹と敵対し、官渡で激突すると、

于禁と共に5000人の兵士を任され、その兵を持って多くの袁紹軍の陣を焼き払っています。

 

またこの戦いでは、1万を超える袁紹軍の兵士を討ち取ったり、捕虜としたようです。

そして何茂・王摩などの敵将を降伏させています。

 

蒼天航路(11巻13P)より画像引用

華北統一戦での楽進

官渡の戦いに勝利し、その後袁紹がこの世を去ると、

袁紹の遺児であった袁譚・袁尚・袁煕らの後継者争いにつけ込む形で

曹操は河北統一に動き出しました。

 

この際に曹操は袁譚と同盟関係を結び、まず袁尚を攻めるんですが、

袁尚臣下であった厳敬(げんけい)を討ち取っています。

 

 

その後も袁尚・袁煕討伐戦に参加したり、

彼らの本拠地であった鄴城攻めに参加したようです。

 

そして鄴城陥落時に降伏した高幹(こうかん)が曹操に反逆をして壺関に立て籠もると、

しつこく抵抗する高幹を曹仁・李典らと協力して高幹を討ち取る事に成功。

蒼天航路(11巻11P)より画像引用

 

常に楽進は、誰よりも真っ先に敵に突撃し、

体中傷だらけになりながらも多くの功績をあげてきました。

 

楽進は張遼・于禁らとともにこれまでの功績を称えられ、

この時、楽進は折衝将軍に任命しています。

合肥の戦い

そんな楽進ですが、張遼と仲が良くありませんでした。

 

しかし戦いとなると、

己の私情は抜きにして常に張遼と協力して戦っています。

 

また合肥(がっぴ)城が孫権に攻められると、

楽進は張遼・李典と共に協力して孫権軍を打ち破り、合肥城を守り通しました。

 

 

ちなみに張遼がまだ呂布の臣下だったころ、

李典の叔父が呂布軍に殺された事があった為、李典も張遼とは仲がよくなかったようです。

 

魏の為に私情を捨てて敵とあたれるというのは、

名将の名将たる所以かもしれませんね。

 

 

楽進は最終的に右将軍にまで出世し、

合肥の戦いの3年後にあたる218年にこの世を去っています。

 

当時于禁が左将軍であり、

楽進と于禁は曹操軍の中で将軍職としては二人以上の者はいませんでした。

 

その点から見ても、

楽進が曹操にとって高く評価されていたことが分かりますね。

陳寿の評価

 

陳寿は楽進を張遼・于禁・張郃・徐晃と共に五大将軍の評価を与えており、

楽進を含めた5人を「魏書」17巻の 張楽于張徐伝にまとめて記録を残しています。

 

「伝」の名前からも分かるように

5人それぞれの氏名の頭漢字をが使われているわけです。

 

その中でも張遼に次ぐ2番目に記載されている事からも、

陳寿が楽進のことを大変高く評価していたことがわかります。

 

ただ他の4人と違って戦いに関する詳細な記録があまり書かれていません。

 

 

楽進をそれでも高く評価した陳寿は、

「楽進の記録がなんらかの事情で記載されていなかったのだろう」

と自分自身にフォローをいれています。

 

その上で陳寿は、常に命懸けで功績を上げ続けた者と言っており、

同時に楽進の力を見出した曹操を高く評価しています。