諸葛亮(孔明)が第一次北伐を開始した際に、
天水太守であった馬遵(ばじゅん)が見回りをしていました。
住民が蜀に呼応するような動きがみられ、
その動きを知って恐れた馬遵は、
役所があった冀城を捨てて上邽城に逃亡するんですが、
これを追ってきた味方の姜維・梁緒・梁虔・尹賞までも疑い、
入城を拒否する始末。
理由は、「誰も信用できない。お前らも全員敵だ!」みたいな感じだったらしい。
周りの郡が次々に蜀軍に降伏していたので、完全に疑心暗鬼に陥っていたのでしょうね
それによって行く場所を失った四人は、諸葛亮に降ったんですけど、
ここでは表舞台から消えた姜維以外の三名がその後どうなったのか見ていきたいと思います。
梁緒(りょうちょ)
蜀に降ってからの梁緒は、
第一次北伐が失敗に終わってからも蜀に仕えています。
魏にいた頃は、天水郡の功曹に任命されており、
最終的に九卿にあたる「大鴻臚(だいこうろ)」まで出世しているので、
それなりに有能な人物だったのでしょう。
ちなみにですけど、
功曹は地元の有力者に任される事が多かったことから、
梁緒はこのあたりでは名が知れた豪族の一人だったのかもしれませんね。
ただその後の梁緒が、
どんなことをしたのか等の記録は残っていません。
梁虔(りょうけん)
梁緒と同じ姓ですが、親族であったなどの記録はなく、
たまたま同じ姓だったのかもしれませんね。
梁緒と同様に、第一次北伐が失敗に終わった後も蜀に仕えています。
魏に仕えていた時は、天水郡の主記を任されていました。
ただ蜀に降伏した四人のうち、
間違いなく他の三人より変わった人生を歩んだようです。
どうしてそうなったのかは分かりませんけど宦官になったみたいですよ。
※宦官とは去勢して宮廷内で仕えた者達
それも最終的に宦官の最高位である、
大長秋(だいちょうしゅう)にまで出世しています。
分かりやすく将軍職でいえば、大将軍にまで昇りつめたような感じです。
ちなみにですけど曹操の爺ちゃんであった曹騰(そうとう)が宦官であった事は有名ですが、
曹騰もまた宦官の最高位である大長秋にまで昇りつめた人物です。
後漢の時代も、三国に分かれて争った魏・呉・蜀でも、
大長秋になれるのは一人だけです。
後に蜀を滅ぼすことになった原因とされる黄皓も宦官でしたが、
梁虔から見たら当時下っ端の宦官だったということです。
ただ梁虔は名前がその後出てこない事からも真面目に仕えたのでしょう。
真面目にしていた者ほど表には出てこず、
悪い事をしていた者ほど名前が残りやすいものですから。
尹賞(いんしょう)
蜀に降ってからの尹賞は、第一次北伐が失敗に終わった後も、
梁緒・梁虔と同じくそのまま蜀へ仕えています。
尹賞は最終的に成都の警備長官である執金吾(しつきんご)まで出世したようですね。
この役職は、皇帝であった劉禅の身辺警護であったり、
蜀都であった成都の警備を任される警備長官のような役目でした。
このような重要な任務を任されたことからも、
他の二人同様に蜀内で信頼されていったことが分かりますね。
三国志演義での梁緒・梁虔・尹賞
梁緒と尹賞は天水太守であった馬遵と共に天水を守っており、
梁虔は梁緒の弟として上邽城を守っていました。
姜維が孔明の離間の計で蜀へ降伏した後、
姜維は自分と仲が良かった梁緒・尹賞の二人を夏侯楙・馬遵に疑わせる離間の計を実行。
それに見事にはまった夏侯楙(かこうぼう)・馬遵は、
梁緒・尹賞は蜀軍を天水に招き入れて、蜀へ降伏しています。
その後、兄であった梁緒は上邽城を守っていた梁虔の元へ行き、
説得して蜀へ降伏させています。
梁緒は天水太守に、梁虔は上邽の令に、尹賞は冀城の令に任命され、
その後の出番はありません。