賈逵(字:梁道)

賈逵は名家の賈一族として生まれます。
父の名は今に伝わっていませんが、祖父に賈習がいました。
賈逵は、魏の建国期から発展期にかけて活躍した人物です。
河東郡襄陵県の出身で、「魏書」賈逵伝に列伝が立てられています。
後世では曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた忠臣として高く評価されており、
軍事・行政の両面で大きな功績を残しました。
特に地方統治の手腕と対呉防衛での活躍は顕著であり、魏を支えた実務家の代表的人物の一人といえます。
幼少期
賈逵は河東の名門賈氏の出身でしたが、幼くして父母を失いました。
父の名は今に伝わっていませんが、
祖父の賈習が賈逵を養育したことが「魏志」賈逵伝に記されています。
| 自為兒童、戲弄常設部伍、祖父習異之。 曰「汝大必為將率。」口授兵法數萬言。(「魏志」賈逵伝)賈逵が部隊を作って戦争遊びをしていた事に才能を感じた祖父は、数万字にも及ぶ兵法書を教えた。 |
やがて賈逵は河東郡で官吏として登用されることとなりました。
郭援・高幹との戦いで名を上げる

建安年間、賈逵は河東郡にある絳邑の邑長となりました。
当時、官渡の戦いで敗れた袁紹が死去すると、
その後継争いに乗じて曹操は河北平定を進めていました。
これに対し袁尚は曹操の背後を脅かすため、
并州の高幹や郭援らは呼廚泉(匈奴単于)らとも連携して河東方面へ侵攻しますが、
この時に賈逵が守る絳県も包囲されてしまいます。
しかし賈逵は孤立無援の状況でも最後まで降伏を拒むものの、
城は陥落し、賈逵自身も捕らえられますが、敵将の郭援に対して少しも屈することなく堂々と振る舞ったといいます。
この時の逸話として、
「国家に仕えている以上、逆賊に従うことはできない」
という趣旨の発言をしたことが伝えられています。
その後、鍾繇の指揮する援軍が到着し、
馬超・龐徳らの活躍によって郭援は討ち取られ、高幹勢力も敗北しました。
この戦いで賈逵の忠誠と胆力は広く知られるようになりました。
祖父の死と一時帰郷
賈逵は祖父の賈習が亡くなると、喪に服するため官職を辞しました。
当時の儒教社会では親族の喪に服することが重視されていたため、賈逵の行動はごく自然なものでした。
そして喪が明けると、賈逵は曹操に召し出されます。
曹操は賈逵の才能を高く評価し、自らの幕府へ迎えました。
その後、馬超・韓遂ら関中諸将が反乱を起こした際には、弘農郡の行政を任され、後方地域の安定に貢献しています。
正史三国志には、曹操が、
「郡太守が皆このような人物であれば憂いはない」
と賈逵を称賛したことが記されています。
これは賈逵が軍事面だけでなく、
行政面でも極めて優秀な人物であったという事が言えたわけです。
曹操最晩年の重臣
曹操の晩年にはますます信任を深めました。
建安二十五年(220年)、曹操が死去すると、賈逵は葬儀の実務を担当しています。
国家最大級の儀式を任されたことからも、曹操からの信頼の厚さがうかがえます。
曹丕が魏王、そして皇帝となると、賈逵は鄴令・魏郡太守などを歴任しました。
その後、豫州刺史に任命されています。
当時の豫州は魏と呉の最前線であり、軍事的にも行政的にも極めて重要な地域でした。
賈逵は赴任すると官吏の綱紀粛正を徹底し、不正を厳しく取り締まりました。
その結果、治安は大きく改善されます。
この功績に対し、曹丕は
「賈逵のような刺史は他にいない」
と称賛し、全国の模範として諸州に示しました。
賈侯渠の建設
賈逵最大の功績の一つが、水利事業である「賈侯渠」の建設です。
豫州は呉との国境地帯であり、軍事輸送が重要でした。
そこで賈逵は大規模な運河を整備し、水運網を改善したわけです。
これにより、
- 軍糧輸送の効率化
- 軍隊の迅速な移動
- 地域経済の発展
が実現されました。
賈侯渠は後世まで利用される重要な公共事業となり、賈逵の行政手腕を示す代表的業績となっています。
石亭の戦い(魏VS呉)

賈逵は対呉戦線でも活躍しました。
黄初七年(226年)、呉の降将を装った周魴の偽降伏に曹休が騙され、石亭の戦いが起こります。
曹休軍は大敗し、危機的状況に陥りました。
この時、賈逵は迅速に救援軍を率いて出陣します。
正史三国志には、
- 昼夜兼行で進軍したこと
- 軍旗や軍鼓を多く用いて大軍を装ったこと
が記されています。
これを見た呉軍は魏の大軍が到着したと判断し、撤退しました。
その結果、曹休軍は壊滅を免れています。
もし賈逵の救援がなければ、被害はさらに深刻になっていた可能性が高いでしょう。
賈逵病没
石亭の戦いの翌年である太和二年(228年)、賈逵は病により死去しました。
享年55歳前後だったと考えられています。
正史によれば、臨終の際、
「国家から大恩を受けながら、呉を平定しきれなかったことが残念だ。」
という趣旨の言葉を残したと伝えられています。
最後まで魏への忠誠を失わなかった人物でした。
賈逵の死後、豫州の官民はその徳を慕い、自発的に祠を建てました。
後に魏の皇帝である 曹叡 が東方へ巡幸した際、その祠を訪れています。
曹叡は賈逵の功績を称え、
「生前は国家に尽くし、死後も人々に慕われている」
として群臣に模範とするよう命じました。






