県令の仇を討った張繍(ちょうしゅう)

張繍は同郷の武威郡祖厲県の県令であった劉雋りゅうしゅんに抜擢されて仕えますが、

北宮伯玉らに取り込まれた韓遂・辺章が涼州で大規模な反乱を起こすと、

 

 

劉雋に仕えていた金城郡金城県出身の麹勝は、

 

北宮伯玉・韓遂・辺章らによって、

金城郡が占領されてしまったことなども影響あったのでしょう。

 

麹勝は県令の劉雋を襲って殺してしまいました。

 

しかし劉雋に仕えていた張繍は、劉雋の仇として麹勝の暗殺に成功します。

県令の仇討ちに成功した張繍の行動は褒め称えられました。

 

 

そのことがあってからというもの、張繍を慕う者も増えていき、

その者達を従えて、族父であった董卓の臣下であった張済の傘下に入ったそうです。

 

しかし王允・呂布によって董卓が討ち取られると、

張済・張繍は李傕・郭汜らとともに長安を王允・呂布から奪還する事に成功しています。

張済の跡を継いだ張繍

196年に張済が南陽郡での戦いで戦死してしまうと、

張済の軍勢を張繍が引き継ぎました。

 

このあたりから賈詡が張繍の臣下として使えたようです。

 

そして勢力を拡大していた曹操に対抗するため、

賈詡の助言もあり、劉表と同盟を結んで南陽郡苑城に拠点を移したわけです。

 

その後、曹操が攻め込んでくると抵抗をしていたものの、

張繍は賈詡の進言もあって簡単に曹操に降伏してしまいます。

蒼天航路(10巻23P)より画像引用

 

しかし、張繍に仕えていた胡車児こしゃじを曹操が気に入り、

曹操自ら黄金を胡車児い与えた事で張繍は不安に陥ってしまいました。

 

胡車児は張繍軍の中でも武勇を誇っていた者だったので、

曹操が胡車児を引き抜いて、張繍自信を殺害するのではと疑心暗鬼に陥ったわけです。

 

そこで張繍は賈詡に相談し、

曹操に奇襲をしかけて曹操軍を大敗させています。

 

この奇襲によって、曹操軍は長男であった曹昂をはじめ、

曹安民や典韋を討ち取られてしまっています。

 

曹操自身も命からがら脱出に成功できたほどだったそうです。

とにもかくにも目にも当てられないほどの惨敗を喫してしまったわけですね。

 

その後は再び劉表と同盟を結びなおし、曹操と抵抗を続けていく事になります。

 

 

ちなみにですが、三国志演義では、

張済の妻で未亡人になっていた鄒氏に曹操がはまり込み、

 

それに怒りを覚えた張繍が賈詡の策略を用いて曹操を破っています。

曹操を虜にした未亡人、鄒氏(すうし)

情勢を読み切り、曹操に再度降伏した張繍

曹操と袁紹が激突し始めると、

袁紹から曹操を挟み撃ちにするために同盟の誘いがあり、

 

張繍はこの誘いを普通に受けるつもりでしたが、

賈詡は今の袁紹と曹操の心情を読み取り、

 

曹操に今のタイミングで降伏するように勧め、

張繍は賈詡の進言に従って降伏する事を再度決意します。

 

 

曹操は強大な袁紹軍と対峙していたこともあり、

曹昂・曹安民・典韋を殺された恨みもあったんでしょうけど、

 

そんなことは気に留める様子もなく、

張繍の手を取って喜び、張繍の降伏を心の底から歓迎しました。

 

曹操にとっては、誰でもいいから味方になってくれる者を求めていた時だったわけですね。

それを見事に読み取った賈詡はさすがとしか言いようがありません。

 

 

この時、張繍は列侯に封じられ、

曹操と周姫の子であった曹均に張繍の娘が嫁いで親戚関係を結びました。

 

昔の恨みを忘れて、必要な者達の能力を見極めて厚遇する。

まさしくこれを平気にできることが、曹操の真骨頂ともいうべきこ長所でしょうね。

 

曹操に降伏してからの張繍は、

袁紹との官渡の戦いで活躍を果たして破羌将軍に任命されます。

 

袁紹亡き後は、袁紹の長男であった袁譚を破るなどの功績をあげています。

そんな張繍ですが、207年に烏桓征伐中に病死しました。

「魏略」に残る曹丕と張繍の逸話

正史では陣没したことになっていますが、

「魏略」には曹操の子である曹丕に皮肉な言葉を浴びせられて死んだという話が残っています。

 

「魏略」とは魏を中心にした話で、

もともと魏に仕えた歴史家の魚豢ぎょかんによって作られたものと言われており、

 

多くの内容が散逸してしまっていましたが、

1922年に張鵬一という人物が残っているものを集めて再編したことで、

現在も見る事ができるものですが、魚豢が書いたと言われるものの1/20程度しか残っていません。

 

 

その魏略によると、張繍が曹丕に何度か頼みごとをすることがあり、

曹丕は「私の兄である曹昂を殺したのに、よくも私に平気な顔で何度も会えるものだ!」

と張繍に対して皮肉を言ったそうです。

 

それを聞いた張繍は、そのうち処刑されるのではと恐れて自殺しています。

 

 

実際正史の方が正しいのか魏略の方が正しいのかは分かりませんが、

どちらであっても可能性がある最後かなと思いますね。

 

ただ魏略の方を優先した場合、正史の胡車児の件でもそうですが、

相当小心者だった気がしますけど。

 

そして張繍の子の事も少し記載されており、張繍の唯一の男子であった張泉ちょうせんは、

219年に魏諷ぎふうの反乱に参加したはいいものの失敗して処刑されたそうです。