凌操は淩統の父親であり、

淩統の方が案外有名だったりしますが、

 

ここでは淩統の父でもあった凌操の生涯についてみていきたいと思います。

 

ちなみにですが凌操についてのことは、

ほとんどのことが淩統伝の中に記載されています。

凌操(りょうそう)

凌操は揚州呉郡の出身で、勇猛果敢な人物で、

肝っ玉が据わった人物でした。

 

凌操は、孫策が挙兵した際に孫策に仕えるようになったようで、

それ以後は孫策軍の先鋒として多くの戦場に参加しています。

 

凌操はこれらの戦いでかなりの功績をあげ、

それが孫策に認められて、凌操は永平県の県令に任命される事になります。

 

 

そして山越の反乱を見事に鎮圧し、

両王が治める永平県では、凌操を恐れて誰も悪さしなくなったといいます。

 

また山越討伐を果たした凌操に対して、孫策は破賊校尉に昇進。

 

 

ここで破賊校尉に任命されている事は多少驚くことで、

 

比較的新参者の一人であった凌操が、

孫堅四天王の一人であった韓当と同じ「校尉」と同等の地位だったからですね。

あっけない最後

 

孫策が死亡すると、孫権が後を継ぎ、

父の仇でもあった黄祖が守る江夏に攻め込むことになります。

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)を翻弄した黄祖

 

凌操はこれまでの戦場と変わらず、

孫権軍の先鋒部隊として黄祖軍の先鋒を見事に撃破していますが、

 

勢いに乗じて追い打ちをかけた際に、

黄祖軍の臣下であった甘寧軍の流れ矢を受けて討死。

 

もしここで討死していなければ、

今後孫権軍の主力メンバーの一人として活躍していったでしょうね。

凌操の死に様に関する「淩統伝」と「甘寧伝」での記載の違い

凌操が黄祖の先鋒部隊を破って追撃した際に、

甘寧軍によっての流れ矢で討死することになってしまいますが、

 

このように書かれてあるのは「淩統伝」なんですよね。

 

凌操が死んだことについては、

凌操の子である「淩統伝」にまず記載されていますが、

 

一方で「甘寧伝」にも記載が残されています。

 

 

「甘寧伝」には、凌操率いる追手に対して、

敗れた黄祖軍の殿として甘寧が務めることになりますが、

 

追ってきた凌操を甘寧が射抜いて仕留めたと書かれています。

 

「甘寧伝」の解釈でいうと、凌操は甘寧が放った矢で射抜かれた事になりますが、

この可能性も十分にある気はしますね。

どちらの解釈が正しいのか?

凌操を殺された孫権側の記述として、

「矢が飛んでいた中の1本の矢がたまたま凌操に当たってしまった」

とみるのは普通の事ですし、

 

実際に甘寧が射抜いたのならば、

当事者であった甘寧側の記述としてはっきりと記載できるでしょうからね。

受けた恩義には命をかけて報いた将軍、甘寧(かんねい) 〜曹操に張遼がいるならば、私には甘寧がいる〜

 

まぁどちらが正確なのかは、今では知ることはできませんが、

殿を任されていた甘寧らによって凌操が討死したということだけは間違いありません。

 

それが甘寧が放った矢だったのか、

甘寧の部隊が放った矢だったかだけの違いです。

 

まぁどちらにしろこの件があってから、

淩統は後に味方になる甘寧の事を父の仇として見ていく事になるのですが、

それはまだ後の話です。