陳武(ちんぶ)

陳武は大柄の体格で、身長が七尺七寸(約185cm)ほどあったといいます。

この時の陳武の年齢は、まだ18歳だったといいます。

 

陳武は、孫策が劉繇討伐に出陣する前に孫策の元を訪ね、

孫策の魅力に惹かれて仕えることを決意。

 

陳武は、孫策に付き従い、

劉繇戦・太史慈戦・許貢戦・王朗戦と様々な戦いで武勲を上げたことで、

別部司馬に任じられています。

軍団長への出世

孫策が大きな勢力を誇っていた劉勲と戦いますが、

ここでも陳武は手柄を上げます。

 

孫策はこの戦いで廬江の人々が多く捕虜にしており、

捕虜の中から厳選した者達を選りすぐった新たな軍団を陳武へ指揮させます。

 

陳武はその軍団を率いて、負けなしだったといいます。

 

また陳武は他人への思いやりの精神で接しており、

多くの者達が陳武を慕ったそうです。

孫権に大きな信頼を受ける

孫策が死去すると孫権が跡を継ぎますが、

 

孫権の代になっても手柄を上げ、五校尉の目付け役を任され、

最終的に偏将軍に任じられています。

 

 

また孫権は陳武を非常に信頼しており、

何度となく自らの足で陳武の家を訪れたという話も残っています。

 

兄であった孫策と近い年齢で会ったことからも

孫権にとってはお兄ちゃんみたいな存在だったのかもしれませんね。

陳武の最後

 

215年に孫堅は約10万人を率いて、

張遼が7000人の兵士で守る合肥へ攻め込みます。

 

圧倒的な兵力差があったこともあり、

この戦いは簡単に勝利できると孫権は思っていました。

 

 

しかし実際は張遼の奇襲によって孫権軍は危機に陥ります。

この張遼の奇襲から孫権を守る為に陳武は討死してしまいました。

 

また陳武が討ち取られてしまった事で、

孫権は落胆、兵士達の士気も駄々落ちしてしまうのです。

 

そしてこの戦いは、陳武が討ち取られただけでなく、

伝染病まで蔓延してしまいました。

 

 

これをもって孫権は完全に撤退を決意するわけですが、

ここでも張遼によって奇襲を受けてしまい、再び孫権は命の危機に陥ります。

 

しかしここでは淩統が奮闘し、

命からがら撤退できたという呉の惨敗に終わった戦いでした。

凌操の息子、凌統

陳武の葬式

孫権にとって、合肥の戦いに負けた事も残念でしたが、

何より陳武を失ってしまったことが悲しくてたまりませんでした。

 

孫権は陳武の葬式に自ら参加し、陳武を弔います。

 

そしてあの世でも陳武が悲しくないようにという意味を込めてか、

陳武の愛した妾も一緒に殉死するように命令。

 

またそれだけでなく、

陳武の賓客であった二百の家の租税を免除してあげたそうです。

三国志演義での陳武

三国志演義で描かれた陳武は、周瑜と古くからの友人として登場。

 

そしてどこからそういう感じにしたのか不明ですが、

演義での一番特徴的なのは、陳武の顔が黄色で、赤い瞳をしている風に描かれています。

 

そんな変わった描写がされている陳武ですが、

劉繇の残党軍として登場する張英を討ち取っています。

 

 

また劉備と孫夫人(孫尚香)の婚礼が終わり、

二人が荊州へ逃げ去る際に、潘璋・陳武が孫夫人を取り返すために追いかけました。

 

しかし男勝りの孫夫人に「何故追ってくるのか!」と言われると、

何も言えなくなって引き上げる役でも登場。

 

 

陳武の最後は、正史のように張遼に討ち取られたのではなく、

元馬超軍の一人であった龐徳ほうとくと一騎打ちを行って討ち取られています。

 

また敗戦後、孫権はその戦いで死亡した陳武と董襲の亡骸を探しだし、

丁重に二人を弔ってあげています。