関羽死亡の戦犯として、

糜芳同様に扱われるのが今回紹介する傅士仁になります。

 

個人的に言うと、関羽以外の誰かを戦犯というなら

糜芳というよりも高い確率で傅士仁だと私は思いますね。

傅士仁(ふしじん)

横山光輝三国志(41巻125P)より画像引用

 

傅士仁の名が初めて三国志に登場するのは、関羽が樊城攻めを行った時期になります。

 

 

それまで傅士仁がどういう人生を歩んできたのか等は完全に不明で、

 

いきなり名前が登場したかと思えば、

呉に寝返った挙句に糜芳の寝返りのきっかけを与えた人物というから、

 

蜀ファンからしたら、裏切り者以外のの何者でもない評価・・・

傅士仁説or士仁説

ちなみにですが、私は傅士仁と名前を使っていますが、

実際の名前は「士仁(しじん)」だという説が日本では強いようですが、

 

その理由は、傅士仁の名が関羽伝にしか出てきていないからです。

 

 

それ以外に傅士仁の事が記載されているのは、

 

呉の韋昭いしょうが編纂した「三国志」や楊戯が書いた「季漢輔臣賛」であり、

これらには傅士仁ではなく、士仁として登場しているのも理由です。

 

よく「傅士仁」はあくまで陳寿の誤記であり、「士仁」が正しいという人がいますが、

はっきりいってどちらが正しいかは不明です。

 

 

実際、「傅士」が姓で、

「仁」が名であったとしてもなんら不思議ではありません。

 

「夏侯」「諸葛」「司馬」「毌丘」「鍾離」など二文字の姓なんてよくあります。

 

結局のところどちらが正しいかは、今後新たな資料が出てきたりしない限りは、

どんなに議論されても結論が出る事はないでしょう。

荊州の情勢

当時の荊州は三つ巴になっており、

魏・呉・蜀での覇権争いが激化していた場所であり、

 

関羽は曹仁が守る樊城へ侵攻を開始します。

そして襄陽・樊城を攻略できた暁には、許昌・洛陽と主要都市への侵攻を考えていました。

 

 

また既に劉備は漢中攻略にも成功している状態で、

 

漢中からの二方面攻撃も可能になり、

うまくいけば天下の情勢が一気に蜀に傾く可能性がある状況だったわけです。

関羽との確執

関羽が樊城攻撃を開始して後、

糜芳と傅士仁は食糧輸送などの後方支援を担当していました。

 

しかしちょっとしたミスがあり、

糜芳は失火によって輸送予定だった食糧等を焼いてしまいます。

 

 

また常日頃から強い口調でいちゃもんをつけてくる関羽に対して、

 

傅士仁・糜芳と関羽の間の確執が大きくなっており、

関羽からの援軍要請があった際も最低限のみの援軍だけを送っていたようです。

 

 

糜芳・傅士仁のこれらの行動に激怒した関羽は、

「後でお前ら罰してやるから覚えておけよ!」と脅しています。

 

そんなことがあったものだから、

関羽との確執が更に深まったことは言うまでもありません。

糜芳 -曹操・劉備・孫権から評価されるも、不運が重なった劉備の恩人-

呂蒙の策略

孫権は表向きこそ劉備と同盟関係を築いていましたが、

関羽が呉に対してあまりにも傲慢だったこともあり、孫権は関羽の背後を襲う事を考えていました。

 

この際に関羽を油断させるために、

病気と偽って呂蒙は指揮官を降りて、代わりとして陸遜を指揮官に任じています。

 

 

呂蒙に比べて名が通っていなかった陸遜に対して、

関羽は完全に油断し、江陵・公安など後方に残していた兵を更に樊城攻略の為に全力で要求。

 

関羽は襄陽・樊城しか見えておらず、完全に呉は眼中になかったのです。

 

 

完全に読みが的中したことで、呉軍は手薄となっていた関羽の留守を狙って奇襲!

 

ちなみに事の木、関羽が対呉の為に一応として建設していた狼煙台は、

全く機能せずに侵入を許してしまっています。

 

そして公安を守っていた傅士仁のもとへ呉軍が押し寄せてくることになったわけです。

虞翻からの手紙

関羽の命により樊城攻撃に兵士が駆り出された事もあり、

公安の兵士は手薄になっており、そこにつけこんできたのが虞翻でした。

 

虞翻は孫権の使者として傅士仁を訪ねるわけですが、

虞翻と傅士仁とは知り合いだったこともあり、虞翻は説得できる自信がありました。

 

しかし傅士仁は虞翻に会おうとせず、呉との戦闘態勢を敷きます。

 

 

そこで虞翻は傅士仁にあてた手紙を送ります。

 

そこには「お主はわれわれ呉だけでなく、味方(関羽)からも脅しをかけられて本当に大変な状況だよね」

といった内容が書かれており、

 

 

傅士仁の現在の心境をまさしく言い当てており、

 

その心境を優しく察してくれた虞翻の手紙を見て涙を流し、

これがきっかけとなって降伏を決意したわけです。

 

 

その後、同じく後方の守備を任されていた糜芳も、傅士仁が投降したことを知ると観念して降伏。

 

傅士仁の裏切りが、糜芳の裏切りを招き、

結果として関羽は呉に捕らえらえて処刑されてしまいます。

「関羽の死」に関わった者達の三国志演義での末路

その後の傅士仁

 

その後の傅士仁はというと、どうなったか全く分かりません(笑)

 

なぜなら糜芳が虞翻のKY発言の逸話が残っているのに対し、

傅士仁の投降後の記録は、全く残っていません。

 

一言で言ってしまえば、

関羽を裏切る為だけに登場した人物だと言えると思います。

 

 

呉の馬忠と立場的には似たような感じかもしれませんね。

 

呉の馬忠も関羽を捕らえた人物であるにもかかわらず、

正史には「馬忠が関羽を捕縛した」という記載しかないからです。

 

良い意味でも悪い意味でも関羽の死に携われたからこそ、

傅士仁も馬忠もかろうじて正史に名を残すことができたのでしょうね。

関羽を捕らえた謎多き武将、呉の馬忠