曹操がまだ若かったころに、

曹操を高く評価した人物として真っ先に挙げられるのは、

 

「治世の能臣、乱世の奸雄」と曹操を評価した許劭(許子将)でしょう。

 

 

そして許劭に曹操を紹介した人物である橋玄!

許劭(許子将) -人物批評の大家/治世の能臣、乱世の奸雄-

橋玄 -曹操の才能を非常に高く評価した第一人者-

 

この二人のお陰で曹操の名声は大きく高まったのは間違いない事ですが、

実を言うと、橋玄同様に早い時期から曹操を非常に高く評価した人物がいました。

 

それが今回紹介する何顒かぎょうという人物になるんですが、

何顒は曹操だけでなく、荀彧も高く評価している人物としても有名です。

何顒(かぎょう)

何顒は荊州南陽郡の出身で、洛陽へ遊学し勉学に励みます。

 

そして何顒は官僚を育成する為の教育機関である太学たいがくで、

多くの者達に認められるほどに成長していきます。

 

年齢こそ離れていましたが、

この時に郭泰・賈彪と親しくつきあるようになっていくのです。

 

そんな折りに、親しかった李膺・郭泰・賈彪らと共に宦官排除に動き、

逆に宦官らの逆襲を食らってしまったことがありました。

 

 

これを党錮の禁というんですが、

 

そこで何顒は南郡・汝南あたりに逃亡し、

何顒はこの時から姓名を替えて全くの別人を装ったといいます。

 

何顒はその地で更に多くの者達と交流を盛んに行っていきました。

ちなみに曹操を高く評価したのもこの時だと言われています。

袁紹との交流

汝南は豫洲の一部であり、

この地は袁紹や袁術といった名家である袁家の本拠地でした。

 

その地に何顒が流れてきたことを知った袁紹は、

名が既に知れていた何顒と交流を持つようになっていきます。

 

そして二人は次第に親友の関係になっていったようです。

 

 

袁紹が洛陽へ行く際には、

こっそりと袁紹に付き従って洛陽へも行っていたみたいで、

 

ここで何顒は党錮の禁以降に、宦官の権力が更に増長していた為に、

宦官から駆逐されようとしていた者達を次々に助けていきます。

 

何顒としては少し前の自分を見ているようで助けずにはいられなかったのでしょうね。

 

 

おそらく後に袁紹が宦官を恨んで大虐殺を行うのですが、

何顒からの影響をこの時に受けていたと思われます。

 

そして何顒が宦官から苦難を被せられていた者達を救う際には、

大なり小なり袁紹の力を借りたのは間違いないでしょう。

 

 

そもそも何顒は見つからないように、

こっそりと袁紹に従って洛陽にきているわけですから、

 

何顒一人で助け出すのには限界あると思いますし・・・

袁術の嫉妬

何顒と袁紹が親友として深く交わっていた事に嫉妬心を抱いていた者がいました。

袁紹の一族(兄弟とも従兄弟とも言われています。)でもあった袁術です。

 

 

袁紹と袁術はお互いに名家であった袁家出身で年も近かったことから、

 

互いに「袁家の跡継ぎは自分だ!」と思っていた事もあり、

二人は対立する事も多く、犬猿の仲でした。

 

 

そして何顒が有名な人物であり、

その何顒と親交を深くしていた袁紹が許せなかったのでしょう。

 

だからこそ自分も何顒と親交を結ぼうとするのですが、

そんな袁術を小物と見た何顒は、袁術の誘いを受ける事はありませんでした。

 

これにより袁術は何顒を深く恨むようになっていったわけです。

愛が憎しみに変わるような感じでしょうね。

袁紹・袁術の一族である袁家って本当に名門なの?

何顒を貶めようと画策する袁術

 

袁術は自分に会う事すらしてくれなかった何顒を貶める為に、

多くの者達を招いた際に「何顒は悪い奴だ!」と何顒が犯した罪を三つあげることがありました。

 

その三つは以下になります。

  1. 王徳彌おうとくやは見識高くて有名な人物、何顒から見たら年上でもある王徳彌を軽んじている
  2. 品行も悪く、卑しい人物である許子遠(許攸)と何顒は親しく付き合っている
  3. 太学で共に学んだ郭泰・賈彪は今では貧乏生活を送っているのに対し、何顒は立派な馬に乗り、立派な服装で道を歩いている

 

 

これに対してこの場に招かれていた陶丘洪とうきゅうこうは、

「王徳彌は立派な人物だと言われてはいるが、大した才能を持っているわけではない。

 

許子遠は品行に難があるとはいえ、有事の際には危険を顧みない人間である。

 

 

かつて何顒は虞偉高ぐいこうの為に、

自ら剣を取って仇討ちを果たした義に厚い人物である。

 

ただその仇討ちをした相手側が巨万の富を築いた家柄であり、

四百頭の優れた馬を持っている。

 

 

もしも何顒は痩せた馬に乗っていたならば、

みすみす殺してくれと言ってるのと同じようなものですよ。」

 

と何顒を弁護して反論しています。

 

 

陶丘洪の言葉を聞いた袁術ですが、

何顒への恨みがなくなることはありませんでした。

何顒の殺害を決意した袁術

何顒への恨みが抜けない袁術は、

考えに考えた挙句に何顒を殺害する事を決意します。

 

何顒への殺意を決意した際に、

名士であった宗承とたまたま宮殿の門下で出会うのですが、

 

この時に袁術が何顒を殺害しようとしている胸の内を明かします。

 

 

これを聞いた宗承は、

「何顒殿は優れた人物であるので、

何顒殿を袁術殿が殺したならば、袁術殿の名声は地に落ちますよ。

 

ここは何顒殿を大きな心で許すことで、逆に袁術殿の名声が高まると思います」と答えます。

 

 

これを聞いた袁術は、内心まだ納得できない所はあったものの、

宗承の言葉に従い、何顒を殺害することはやめることにしたのでした。

黄巾の乱勃発での転機

張角率いる黄巾の乱が勃発すると、

党錮の禁で遠ざけられていた者達が張角に通じることを避けるために、

 

166年に起こった党錮の禁は184年に解除されることとなります。

 

 

そしてこの時に各地に追いやられていた多くの者達が呼び戻され、

何顒もこの時に司空府に呼び戻されたわけです。

 

そして何顒は右肩上がりで出世していきます。

霊帝崩御による何進の躍進

189年に霊帝が崩御したことで、

黄巾の乱で収まっていた外戚と宦官の対立は激しくなっていきました。

 

そして劉弁(少帝)の外戚でもあり、

大将軍でもあった何進が朝廷内で実権を握り始めると、

 

何顒は後に曹操に仕える事になる荀攸や袁紹の謀臣になる逢紀らと共に、

何進の参謀を任されるようになります。

 

 

しかし宦官の罠にかかった形で何進が殺害されると、

袁紹・袁術らが宦官撲滅へ乗り出します。

 

そして朝廷内が混乱する中、

生前に何進が各地から呼び寄せていた董卓がここで頭角を現すこととなります。

董卓 -三国乱世を加速させた暴君-

何顒の最後

董卓が朝廷内を我が物顔で振舞い、少帝を廃して献帝(劉協)を擁立。

 

何顒を知った董卓は、

何顒を半ば強制的に長史として召し抱えようとします。

 

しかし董卓に仕える事を嫌った何顒は、

病気と偽って董卓の元で長史になることはありませんでした。

 

 

ただ董卓を嫌いながらも、

親友であった袁紹が董卓に討伐されたりないように色々と進言を繰り返していたといいます。

 

例えば袁紹を渤海太守に任じるようにとか・・・

 

 

その後その袁紹を盟主とする反董卓連合が結成されるわけですが、

 

何顒はここで袁紹の元へ馳せ参じるということはなく、

長安遷都に伴って何顒も長安へと向かったのです。

 

この際に、何顒は王允・荀爽・荀攸らと董卓排除を画策するわけですが、

その最中に荀爽は病死し、何顒・荀攸は捕らえられてしまいます。

 

 

何顒・荀攸が捕らえられたのは董卓暗殺計画が漏れたとかでなく、

 

別件であったみたいですが、

なぜ捕らえられたのか等の詳しい資料は残っていません。

 

何顒は最終的に投獄中に自殺するのですが、

これは残された王允の董卓殺害計画が漏れることなどを憂いての自殺だったのかもしれませんね。

曹操と荀彧を高く評価した何顒

何顒は曹操がまだまだ若かった頃、

ほとんど無名に近かった時の事になるんですが、

 

橋玄同様に曹操のことを非常に高く評価していました。

 

 

何顒が曹操に対してどんなことを言ったのかというと、

 

「もしも後漢(漢)が滅びることでもあれば、曹操が天下を平定するだろう」

とまで曹操という人物を高く評価します。

 

実際曹操は天下統一こそ成し遂げられなかったものの、

天下の約二分の一を制覇するという偉業を成し遂げています。

 

 

また曹操にとって欠かせない臣下の一人であった荀彧、

その荀彧に対して「王佐の才」を持っている人物だと評価しています。

 

「王佐の才」とは、王を助けて善政を敷く事に長けた才能という意味で、

荀彧の助言により、曹操は後漢皇帝であった献帝を保護し、

 

曹操を陰ながら助け、郭嘉・荀攸など優れた人物を数多く紹介するなど、

曹操にとってなくてはならない人物でした。

 

 

おそらく荀彧がいなかったら、

曹操が天下の二分の一を制覇することはなかったでしょう。

 

ちなみにですが、長安で亡くなった荀彧の叔父であった荀爽や何顒の遺体は、

後に荀彧が引き取ってきちんと埋葬してあげています。