赤壁の戦いと言えば、曹操が南方攻略の為に侵攻を開始し、

孫権・劉備連合軍に赤壁の戦いで惨敗を喫してしまったというのが一般論です。

 

漫画・映画・ドラマなどでも良く取り上げられる戦いであり、

曹操・劉備・孫権による三国時代のきっかけとなるものだったことは有名です。

 

この時、曹操軍は黄蓋の苦肉の計による火計をきっかけに、

曹操軍が壊滅状態に陥り、命からがら都へ逃げかえった事でも知られています。

 

 

ただ実際は、曹操は負けはしたものの、

これまで言われているような被害は受けていないとも言われていますよね。

 

また赤壁の戦いで、曹操軍に疫病が流行ったことも正史のいたるところにちらちらと書かれています。

 

 

今回は正史に記載してある説を一つ一つ検証しながら、

赤壁の戦いについて見ていこうと思います。

正史に記載されている魏・呉・蜀からみた赤壁の戦い

 

まずは赤壁の戦いに勝利した孫権・劉備側の記載から見ていきますが、

 

勝利者側の孫権・劉備側だけの記載を見るのは不公平だと思うので、

敗北者であった曹操側の記載にも触れていきます。

 

そうすることで赤壁の戦いについての真実を、

客観的に分析していけるのではないかと思ったりするわけです。

孫権(呉書/呉主伝(孫権伝))

  1. 左都督に周瑜を、右都督に程普を任命する
  2. 周瑜・程普それぞれ一万人の兵士を従える
  3. 劉備と共に曹操を迎え撃つ為に進軍する
  4. 劉備・周瑜・程普らは赤壁で曹操軍と対峙する
  5. 曹操軍に勝利する
  6. 曹操は撤退するも、飢えと疫病により多くの者達が死亡する

 

孫権(呉書/周瑜伝)

  1. 孫権は曹操を倒すために劉備の元へ周瑜・程普を派遣する
  2. 劉備・周瑜・程普らは曹操と赤壁で対峙する
  3. 曹操軍に既に疫病が発生していた
  4. 初戦で劉備・周瑜・程普らが曹操に勝利する
  5. 曹操は長江北岸に逃れて陣を構え、周瑜ら(劉備がいたかは不明)は南岸に陣を構えた
  6. 黄蓋が火計を提案する
  7. 黄蓋が曹操に対して偽の降伏をする
  8. 曹操は黄蓋の降伏を信じる
  9. 黄蓋は油をたっぷりとしみこませた柴草を船に積み、それに火をつけて曹操軍の船へと突撃。
  10. 火は陸にまで燃え広がった結果、曹操は大敗北を喫して南郡(江陵)まで撤退。

 

劉備(蜀書/先主伝(劉備伝))

  1. 劉備が諸葛亮を孫権の元に派遣して同盟を結ぶ
  2. 孫権は周瑜・程普を劉備の元へ送って協力させる
  3. 曹操に勝利する
  4. 劉備は呉軍と共に南郡へと曹操軍を追撃する
  5. 曹操軍の中で疫病が流行する
  6. 疫病による被害が拡大したので、曹操は完全に撤退

 

曹操(魏書・武帝紀)

  1. 曹操は赤壁で劉備と戦うも利なし
  2. 疫病が流行する
  3. 疫病による被害が大きかった為に撤退する

 

時系列的にいうと、

正史に書かれていることは上のような感じです。

「魏書・呉書・蜀書」から見えてくる赤壁の戦い

 

まず呉書・蜀書から分かる事は以下の点です。

これらはすべてに共通して記載が残っているのでおそらく間違いない事だと思われます。

 

  • 劉備と孫権が同盟関係を結ぶ
  • 孫権が劉備の元へ周瑜・程普を派遣している
  • 劉備・孫権(周瑜・程普)連合軍が曹操と赤壁で対峙する
  • 劉備・孫権連合軍が曹操に勝利する
  • 曹操軍の中で疫病が発生する
  • 曹操の撤退

 

 

これを繋げた場合、劉備と孫権が曹操打倒の為に手を結んでおり、

劉備の元へ周瑜・程普を派遣して、赤壁で曹操軍と戦って勝利を収めている。

 

ただそれがきっかけで曹操が撤退したわけではない。

 

曹操軍の中では赤壁で両者が戦う以前から疫病が発生しており、

孫権・劉備連合軍に大敗を喫したのではなく、それが原因で退却している。

 

こんな感じで繋げると自然な感じがします。

黄蓋についての記載に関して

これは呉書の「周瑜伝」に記載がされていることなので、

呉書の記述だけでは何とも言えません。

 

ただ周瑜の指揮下として、周瑜に火計を提案し、

降伏を偽って曹操軍へ火をつけた船を突撃させたというものですが、

 

おそらくこれも本当ではないかと思います。

 

 

その理由は、黄蓋という一武将に関しての記載については、

呉書だからこそ自分達の陣営についてのことだからです。

 

劉備や曹操の立場から見た場合、

他国の一個人の活躍についてそれほどきちんとした記録を残すこともないのが自然だと思いますし。

 

 

やはり曹操からしたら劉備や孫権に敗れたというふうに、

もしくは孫権側の指揮者であった周瑜・程普あたりまでが限界だと思うんですよね。

 

そういった面から、黄蓋のような個人の活躍を書くとしたら

黄蓋が属した呉の人物のことが記載されている「呉書」以外はないと思うからです。

 

 

ただ曹操がこの戦いで、大被害をかぶったかはまた別の話ですね。

むしろ大きな被害は出てない気がします。

赤壁の戦いでの劉備の役割

 

赤壁の戦いではほとんどが周瑜・程普ら呉軍の活躍によるもので、

劉備はほとんどといっていいほど赤壁の戦いには参加していないとも言われています。

 

実際私自身もそう思っているところはあります。

 

 

ただ、そういう思い込みをなくして正史に記載がある文章を純粋に見た場合、

 

劉備は参加していないどころか、

むしろ赤壁の近くで曹操軍と既に戦っていたんじゃないでしょうかね?

 

そこに同盟関係にあった孫権が周瑜・程普を派遣して協力し、

初戦に勝利を収めたということではないかと・・・

 

 

それに武帝紀では赤壁で劉備・孫権連合軍ではなく、

「劉備と戦うも利なし」と劉備だけを名指しにしています。

 

その点を考慮すると、劉備と戦っていた際に、

劉備に周瑜・程普の援軍が到着し、その結果赤壁で曹操が破れてしまうも、

 

曹操からしたら孫権から援軍が劉備軍に到着しただけの話で、

あくまで劉備軍と戦ったという認識でしかなかったのかもしれませんね。

 

 

そして上でも書いていたように、

赤壁の戦いで大きな損害を出していなかった曹操でしたが、

 

疫病による被害が曹操の想定をはるかに上回るぐらいに悪化したことが最大の懸念材料だったのでしょう。

 

 

曹操にとってはまさしく「この一戦に勝っても負けても得るものが少ない」と判断し、

最終的に撤退を選択したという感じが自然な気がします。

 

ここで無理するよりも出直してきた方がいいだろうという判断ですね。

「魏書・呉書・蜀書」全てに記載が出てくる疫病について

魏書・呉書・蜀書に共通して出てくる言葉に「疫病」があります。

そしてそれが大なり小なり曹操軍の撤退に繋がった事が書かれているわけです。

 

唯一疫病の被害が大きかったことが書かれていないのは周瑜伝です。

 

最初に戦った際には既に曹操軍に疫病が発生していて、

それ以降は黄蓋の策略のお陰で赤壁の戦いで勝利したみたいに書かれていますからね。

 

 

それはで実際どんな疫病がこの時曹操軍に流行ったのか、

そのあたりについても考えられる説があります。

 

一般的に言われたりするのは、次の二つです。

  • 住血吸虫病
  • チフス(発疹チフス・腸チフス等)

「済血吸虫病」とはなんぞや?

「住血吸虫病」とはなかなか聞きなれない病名だと思いますが、

 

寄生虫が体内に侵入する事で起きる病気であり、

完治するのに早い人でも2週間程度、遅い人だと12週間程度かかると言われています。

 

 

皮膚から寄生虫が侵入した際にはかゆみを伴い、

その後、発熱・下痢・咳・蕁麻疹じんましん・腹痛・悪寒などの症状を引き起こします。

 

これがひどくなると肝硬変・麻痺・血尿・血便などになることもあるようなので、

油断のできない感染症ということになります。

「住血吸虫病」の感染源

この寄生虫は、淡水の貝類に寄生している事が多く、

汚い水に体(手や足)をつけることで感染する事が多いようです。

 

そして長江流域ではこの条件にぴったしとあてはまっており、

実際に当時の長江流域ではよく起こっていた感染症でもあります。

 

そして曹操軍は長江の水を飲んだり、

体を洗ったりしたことから爆発的に感染したということも十分にうなずけるところです。

 

 

ただ疫病が流行ったタイミングを見た場合、

「住血吸虫病」の可能性が低いというのが現状のように思えます。

 

どういうことかというと、

「住血吸虫病」は暖かい環境下で感染しやすいもので、

 

赤壁の戦いが起きたのはまさに冬の寒い時期だったからですね。

寄生虫に関する余談

実際「住血吸虫病」とは違うかと思いますが、

 

陳登は生魚が好きだったことにより、

陳登の胃に寄生虫が入り込んで巣を作ってしまったことがあったそうです。

 

 

その際に華佗に治療してもらうのですが、

三年後に再発してこの世を去ったという話があります。

 

寄生虫というものにも様々な種類があると思いますが、

陳登も「住血吸虫病」でなかったにしろ、寄生虫により命を落とした一人でした。

チフス(発疹チフス・腸チフス等)

発疹チフスはシラミやダニにより感染するものであり、

戦争・貧困・飢餓など生活環境が悪い場合に爆発的に感染拡大をしていくことが多いです。

 

 

古代ヨーロッパでは発疹チフスが大流行した事は有名で、

 

第一次世界大戦時のロシアであったり、

第二次世界大戦でのドイツお強制収容所でもこの発疹チフスが流行したと言われています。

 

「アンネの日記」で有名なアンネも、

この発疹チフスで最後は命を落としたと言われているぐらいです。

 

 

ちなみに発疹チフスの潜伏期間は1~2週間であり、

高熱・頭痛などを引き起こしたりする感染症になります。

 

そして冬など寒い環境下で感染のリスクが高くなるものでもです。

 

 

 

一方の腸チフスの方はというと、

腸チフスを病原体を持った人や動物の尿や便によって汚染された水や食べ物を体に取り入れる事で感染するものです。

 

そして直接的でないにしろ、ハエなどが仲介媒体となって感染する事もあるようです。

 

また発疹チフス同様に、

生活環境が悪い場合に感染のリスクが高まります。

 

 

腸チフスも発疹チフス同様に1~2週間程度の潜伏期間があり、

発熱・頭痛・腹痛などの症状を引き起こします。

 

更に悪化した場合、

高熱・下痢・肺炎・肝機能障害・意識障害などを引き起こす場合もあるようです。

 

 

そして高熱に悩まされた場合、

それが1週間以上続いたりすることも特徴で、

 

発疹チフス同様にこれも冬に感染しやすいものとなっています。

 

ちなみに第二次世界大戦時の日本でも、

この腸チフスが流行していたことが知られています。

最後に・・・

赤壁の戦い時に曹操軍が疫病に悩まされたというのは、

「住血吸虫病」は季節的に考えると可能性は低いように思えます。

 

そして赤壁の戦いの時期を考えた場合、

夏よりも冬といった寒い時期に感染リスクが非常に高まるチフスの可能性が高そうです。

 

 

実際、発疹チフスだったのか腸チフスだったのか、

症状なども似ているために詳細に突き詰める事は難しいですが、

 

総合してチフスによる感染症を疫病と呼んだ可能性は結構高いと思います。

 

 

潜伏期間が1~2週間というのも、

呉書「周瑜伝」に記載されている内容とも被ったりもしていますし・・・

 

「曹操軍は戦う前から既に疫病にかかっていた」という記載ですね。

 

 

そして時間が経過していく中で感染症が広がりを見せ、

他の「伝」にも記載されているように症状悪化していく兵士が続出し、

 

これ以上戦っても曹操は、

「利なし」と判断して撤退したのではないかなぁと思うんですよね。

 

 

もし曹操が疫病に悩まされる事がなかったならば、

劉備・孫権連合軍との戦いはもっと長引いていた可能性は十分にあるだろうし、

 

世間一般で言われている赤壁の戦いで敗北したにしろ、

曹操にとってそれほど大きな被害はなかったと私は思っていますし、

 

最終的には劉備・孫権連合軍が敗れて、

三国に分かれて争う時代はこなかった可能性も否定できません。

 

 

そういった意味でも、

赤壁の戦いで曹操軍に疫病が広がった意味は大きかったとしか言えませんね。