九醞春酒法(きゅううんしゅんしゅほう)

曹操は酒の醸造法を発明した人物だと言われたりしていますが、

それは実際どのようなものだったかについて触れていきたいと思います。

 

曹操が酒の醸造法を発明したなどと言われているのは

次のような献帝への上奏文に関する記録が残っているからです。

臣縣故令南陽郭芝、有九醞春酒法。

用麹三十斤、流水五石、臘月二日清麹、正月凍解、用好稻米、漉去麹滓、便醸法飮、曰譬諸蟲雖久多完。

三日一醸、滿九斛米止。臣得法醸之常善、其上清滓亦可飮。

若以九醞苦難飮、増爲十醸、差甘易飮、不病。今謹上獻。

 

ここにどういうことが書かれてあるのかというと、

 

県の県令をしていた郭芝かくしという人物が、

酒を美味しく作る方法として「九醞春酒法」というやり方を知っていました。

 

そしてその作り方は次のようなものでした。

  1. 麹30斤(約7kg)と水5石(約100ℓ)を準備する
  2. 12月2日に麹を水で洗って正月まで待つ。
  3. 正月になったら凍っている所を解凍させる
  4. 良質な米を加えて3日に1度発酵させ、9石(約180ℓ)になったら米を追加する事をやめます
  5. これを9回繰り返す
  6. 麹のカスを綺麗にとる(米や麹に沢山の虫がついていたとしても綺麗に取り除ける)
  7. 完成

 

このやり方で作れば毎回美味しいお酒が飲めるとも書かれており、

9回発酵を繰り返すことから「九醞春酒法」と名付けられているわけです。

 

 

また「この方法で作った酒は綺麗なので、

酒カスも一緒に飲むことができる」との記載がされており、

 

「続けて9回発酵させたにも関わらず、

まだお酒が苦いと感じたならば、10回発酵させると甘くなるので飲みやすくなりますよ」という配慮までされています。

 

これが曹操が献帝に上奏した内容でした。

 

 

この「九醞春酒法」の作り方は日本酒の醸造方法に非常に似ている点からも、

もしかしたらこの方法が中国から日本に伝わってきたんではないかとも言われています。

 

そして伝わった手法をもとに、

「日本で改良が加えられて今の日本酒になったのではないか?」という説ですね。

郭芝が考え出したお酒なのか?

「九醞春酒法」のやり方を郭芝が知っていたのは間違いないでしょうし、

曹操が「九醞春酒法」のやり方を郭芝からなんとか聞き出したのも間違いないでしょう。

 

しかしこのやり方を郭芝が考え出したのかというと、

それは少し違う気がします。

 

「九醞春酒法」で作り出されたお酒は、

民衆が簡単に飲めるような代物ではなかっただろうし、

 

郭芝は漢代から祭祀用などの為に作られていた手法をなんらかの形で知っていただけかもしれません。

 

 

もちろん郭芝が研究に研究を重ねて編み出した方法の可能性も否定できませんが、

なんらかで伝わった情報を郭芝が知っていただけの可能性も否定できないんじゃないかと思います。

 

ただ一つだけ間違いのない事は、

「九醞春酒法」を使ってお酒を造るやり方がこの時代にあったという事実です。

 

 

もしも曹操が郭芝から「九醞春酒法」の方法を聞き出していなければ、

 

「九醞春酒法」は後世に伝わる事もなく、

消えていった幻の酒になったかもしれませんからね。

 

 

そういった意味でも曹操が「九醞春酒法」での作り方を、

上奏して記録として残した意味は非常に大きかったと言えるでしょう。

 

 

だからこそ現在でも当時と似たお酒(古井貢酒)を飲むことができたりします。

 

度数は曹操の時代より高いとは思いますが、アマゾンでも購入できますので、

興味ある方は一度飲まれても良いかなと思いますね。

 

三国時代の一般的なお酒事情

三国時代の話を見てみると、お酒に関する話がたくさん残っています。

それが良い逸話のものだったり、悪い逸話のものだったりと・・・

 

 

孫権の酒癖の悪さなんかは飛びぬけていますからね。

 

あまりの酒癖の悪さから、

酒の席で「死ね!」とか言って処刑しようとしたこともありますし。

 

 

 

そんな三国時代に一般的に飲まれていたお酒がどういうものかというと、

「九醞春酒法」のように丁寧に作られたものでなかったことは間違いないかと思います。

 

この方法はあくまで特別なものです。

 

 

中国のお酒の歴史は非常に古く、

司馬遷の書いた史記には、「夏」の時代からお酒が発明されたことが記載されています。

 

「夏」とはもともと実在しない伝説の王朝だと思われていましたが、

二里頭遺跡の発見などにより実在した王朝だと考えられるようになったわけです。

 

 

そんなお酒の歴史が古くからある中国ですが、

三国時代のお酒はアルコール度数が非常に低いものであり、

 

相当量を飲まなければ酔えないというものだったと言われています。

 

 

だから三国志の世界でも、相当量のお酒を飲むような描写がされていたりするのは、

おそらくそういった意味合いもあったのでしょう。

三国時代の禁酒令

三国時代には結構多くの禁酒令が出されたりしています。

有名どころだと、呂布・劉備・曹操が行った禁酒令でしょうね。

 

呂布の禁酒令は、自分を戒める為の要素が強いのものでしたが、

酒が飲めない事で勝手にイライラした呂布によって、侯成がとばっちりを食らったという感じでした。

 

結局二人の関係が悪化したことで、

侯成が曹操に寝返るきっかけになったのは間違いないんですけどね。

 

 

次に劉備の話は少し面白いです。

劉備が禁酒令を出していた際に、簡雍と共に町をぶらぶらしていた時の事です。

 

劉備は酒を造る為の道具を持っていた人をたまたま見つけた際に、

その者を捕らえて処罰しようとしたことがありました。

 

そうすると簡雍が、「それならあの二人(男女)も処罰しないといけませんね」

といきなり言い出すわけですが、

 

劉備は簡雍が言ってる意味が全く分からなかったのです。

 

劉備がその理由を尋ねると、

「あの二人は淫行道具(性器)を持ってるわけだから淫行罪に当たるからですよ」

と簡雍は返したといいます。

 

これを聞いた劉備は納得し、捕らえた者を解放したという話です。

いぶし銀、簡雍(かんよう)/劉璋を降伏させた男

 

 

曹操の出した禁酒令の場合は、呂布・劉備の話とは少し違っていて、

当時の曹操軍は戦をする為の食糧米が少なくなっていた事情から禁酒令を出していたと言われています。

 

もちろん食糧米が少ないから禁酒令を出したというわけにもいかず、

「酒を飲む事は体に悪いことだ」という表面上の理由は作ったみたいですけどね。

 

ただ呂布や劉備と違って、

曹操の出した禁酒令はそれほど厳しいものではなかったのが実情です。

 

だからこそ徐邈のような酒を利用して、うまく出世した人物もいるわけですから。

曹操の禁酒令を平気で破って失敗するも、その失敗のお陰で最終的に出世を勝ち取った徐邈(じょばく)

 

 

ここでは禁酒令についての逸話などに少し触れましたが、

 

お酒に関する話は面白い話が沢山あるので、

興味ある人は色々と調べてみると面白いかもしれませんよ。

 

「竹林の七賢」の一人である劉伶に関しては、

酒の逸話しかないようなレベルで酒を愛した人物だったりします。

「竹林の七賢」の中でも酒の逸話が尽きない劉伶(りゅうれい)