三国時代を幕開ける反乱、それは黄巾の乱。

 

そして黄巾の乱の首謀者張角、

それに張角の二人の弟である張梁・張宝!

 

後漢末期の政治に苦しめられた民衆が、

張角・張梁・張宝に呼応して参加したことで全国的に反乱は拡大していきます。

張角(ちょうかく)

張角をリーダーとする黄巾の乱、

この反乱が三国時代の扉を開いたのだけは間違いないでしょう。

 

良くも悪くも名前が知られている張角ですが、

黄巾の乱を起こす前までの記録は、ほとんどといっていいほど残っておりません。

 

 

184年2月に起きた黄巾の乱は、

瞬く間に広がりを見せていくことになります。

 

これにより張角は天公将軍と自ら称し、

張宝は地公将軍を、張梁は人公将軍と称します。

 

「天」「地」「人」とは宇宙の万物をも表す言葉であり、

まさに張三兄弟は、神に選ばれた将軍と言いたかったのでしょう。

宗教団体「太平道」

 

太平道とは、張角によって作られた宗教団体であり、

後漢末の華北地帯を中心に民衆に信仰された道教の一派になります。

 

 

太平道では「太平清領書」を経典としており、

170巻から構成されているのですが、

 

張角が実際どうやって手に入れたかなどは分かりません。

 

 

三国志演義では南華仙人によって、張角に「太平要術」が与えられた描写になっています。

 

もちろんですが、

正史にある「太平清領書」と三国志演義の「太平要術」は同じものですね。

 

 

もともとこの「太平清領書」というものは、

于吉が授かったものとされていますが、張角と于吉の関係は分かっていません。

 

共に道教を重んじている点を考えると、

于吉の弟子を通じて、なんんかしらで張角まで渡ったと考える方が自然な気がします。

そして「太平清領書」の考え方は、主に次の三つです。
  • 天地を奉り、五行思想の考えを重んじる
  • 良い事や悪い事が起こっても、それは本人のこれまでの行い次第で決定する
  • 善行を積んでいくと延命できる

 

張角は自らを「大賢良師」と称し、

太平道に救いを求めた信者は爆発的に各地に増大していったのです。

「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」

 

「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」とは、

張角が黄巾の乱を起こした際に掲げた旗印でもあるのですが、

 

「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし、歳は甲子に在り、天下大吉」と読みます。

 

 

蒼天は漢王朝(後漢)のことで、黄天は太平道のことをあらわし

「漢王朝は既に死んでいる。今こそ太平道(黄巾)が立ち上がるべき時だ!」という意味になり、

 

その後に続く「歳在甲子 天下大吉」は、

「まさに今は変革を告げる甲子の歳である。全てがうまくいくはずだ!!」といったような意味ですね。

 

 

張角ら黄巾賊が黄巾を頭に被ったりしたのには、

ただ単に仲間と敵を間違わないようにするといった意味だけでなく、

 

中国に古くからある「五行思想」からきています。

 

この思想は、「世の中は木・火・土・金・水の5つで成立しており、

この5つは互いに影響を与え合い、栄枯盛衰が変化して循環する」といったような考え方ですね。

 

 

 

後漢王朝は「火の王朝(赤)」であり、

その王朝を倒すのは順番的に「土の王朝(黄)」という意味なわけです。

 

だから張角は「黄色」を黄巾賊のカラーに掲げたのでした

 

 

ただ結局はこの「土(黄色)の王朝」になったのは、

曹操の息子が打ち立てた「魏」ということになるんですけどね。

 

そして魏を滅ぼした晋は、

「土の王朝」の次にあたる「金の王朝(白)」になるわけです。

 

 

ちなみに余談ではありますが、

 

あぜ漢王朝を「火の王朝」と言うかについてですが、

本来王朝の順で言えば、漢王朝はそもそも「土の王朝」ということになるんですよね。

 

 

しかし始皇帝が天下を治めた秦を正当な王朝と見なさず、

 

前漢を興した劉邦が「伝説上の人物である赤帝の子」と称していたことに兼ねて、

漢王朝を「火の王朝」と呼んだようです。

 

 

また華佗が健康な体を作るために動物の動きを取り入れた体操である「五禽戯ごきんぎ」にも、

この五行思想が取り入れられたりしています。

 

とにかく中国では「五行思想」の考えを非常に大事にしていたわけです。

華佗の編み出した健康法「五禽戯(ごきんぎ)」

黄巾の乱

張角の起こした黄巾の乱は、何も考えずに反乱を起こしたのではなく、

もともと緻密に計画されたものでした。

 

もともと張角は184年3月5日に、

後漢の都であった洛陽を襲撃する計画をたてており、

 

外部だけでなく内部からも反乱を起こすことが必要だと考えていました。

 

その為に張角の幹部でもあった馬元義ばげんぎを洛陽へと出向かせ、

内部から呼応してくれる者達を事前に集めていました。

 

 

これは張角が提案したというより、

個人的には馬元義が提案した考えであったと思っています。

 

馬元義は洛陽奪取を成功させるためには、

内部から呼応する者が必要だと考え、洛陽での人脈も活かしての提案だったのでしょう。

 

そして馬元義は洛陽へと出向くも、

184年2月に洛陽襲撃計画が露呈してしまい、捕らえられて処刑されてしまいます。

 

 

計画が漏れた事を知った張角は焦り、もともとの予定日だった3月5日を繰り上げ、

そのまま2月に反乱を起こしたわけですね。

 

本来であれば外部と内部が協力して洛陽奪取を計画したのもでしたが、

外部からの力押しだけでの反乱になってしまったのです。

張角の最後

数で勝る黄巾賊は、最初こそ優勢であったものの、

後漢は黄巾賊に対応すべく、皇甫嵩・朱儁・盧植などに討伐命令を出します。

 

これにより次第と黄巾賊は追い詰められていく事になります。

 

 

そんな最中に、張角が病死してしまうというアクシデントが起こってしまうのです。

 

ただ実際は張角が反乱を起こした2月当時から、

既に病魔に襲われていて体調を崩していたというのが正確ですね。

 

それが数か月の間に急激に悪化してしまうわけです。

 

 

そういうこともあり張角生存時から、

弟である張宝が指揮していた事も多かったそうです。

 

だから張角亡き後、張宝が指揮を継続してとるものの状況は好転せず、

皇甫嵩らによって張宝・張梁は討ち取られてしまいました。

張宝&張梁 -張角を支えた二人の将軍-

 

 

また張角の遺体は、棺に納められていたにも関わらず、

遺体は引きずり出して痛めつけ、

 

その後は遺体から首を切り取って、洛陽の木に吊るされてみせしめとなったそうです。

 

これにより張兄弟率いる黄巾の乱は終わりを迎えるわけですが、

各地に残る黄巾賊の残党は今後も反乱分子として各地での蜂起が続いていく事になります。

 

 

その中でも青州黄巾賊は、曹操に吸収されたことで有名ですが、

百万(民衆含め)とも言われる青州黄巾賊を手に入れた曹操は頭角を現し、

 

今後の曹操の領地拡大に多大なる貢献をすることになったのです。

青州兵(曹操軍精鋭)誕生の秘話

 

 

もしも曹操が青州黄巾賊を手に入れていなければ、

曹操が天下の1/2ほどの領地を手に入れる事は難しかったのかもしれません。

 

そしてこのこと一つとっても、

それほどの影響力(戦闘力)を黄巾賊が持っていたという事実ですね。