曹操・曹丕に涼州・雍州統治に必要不可欠と思われていたのが張既です。

 

反乱が相次ぐ涼州・雍州を見事に治めることができたほどの才覚。

ここではそんな張既の生涯について見ていきます。

張既(ちょうき)

蒼天航路(27巻131P)より画像引用

 

張既は容姿に優れ、文武に長けた人物で、

文章を書くことに対しては、特に自信を持っていました。

 

ちなみに蒼天航路の中での張既は、明らかに容姿が優れていたような描写ではないんですけどね。

 

 

諸葛亮の北伐に影響を与えた游楚ゆうその父親である游殷ゆういんが、

張既の才能を高く評価して、自分の息子であった游楚を託した話なんてのもありますね。

 

まぁ高く評価したといっても、

「張既なら地方長官ぐらいにはなれるだろうなぁ」程度の評価だったんですけどね。

 

游楚に関しては、どれだけ低評価されているんだって話になってしまうのですが・・・

 

 

少し話がずれたので戻すと、張既は若くして曹操に仕えるのですが、

張既の才能は曹操によって高く評価され、自らの司空府に招いたほどだったのです。

馬騰を味方に引き入れる

張既に大きな転機が訪れたのが袁紹遺児と曹操が戦った202年のことでした。

 

この時袁紹の三男である袁尚の命により、

郭援・高幹・呼廚泉らが曹操の背後を襲う為に攻撃を仕掛けようとします。

 

当初馬騰も袁尚側として参戦しようとしていましたが、

ここで曹操から馬騰を味方に引き入れるように命じられたのが鍾繇でした。

 

 

そして実際に馬騰の説得の死者として送られたのが張既でした。

 

張既は曹操につくことの利を解き、

馬騰を味方に引き入れることに成功!!

 

 

これにより馬騰は、息子の馬超と龐徳に1万の兵士をあずけ、

郭援・高幹・呼廚泉らにあたらせたのです。

 

そして馬超は手傷を追うものの、龐徳が郭援を討ち取り、

高幹・呼廚泉らを追い払ったのでした。

 

ちなみにですが、高幹・呼廚泉らは最終的に曹操に降伏しています。

それ以後、袁尚勢力は本拠であった鄴を失うなど衰退の一途を辿っていったわけですね。

良くも悪くも自分の信念のもとに乱世を生き抜いた馬超

流浪の末に真の主人に巡り合った龐徳(ほうとく)

高幹・張白騎の反乱討伐に貢献

205年に入ると、袁家が滅亡の一途をたどる中で、

曹操に降伏していた高幹が反乱を起こします。

 

高幹は姓が違うから袁家一門ではないと思っている人もいるかもしれませんが、

袁紹は高幹の叔父にあたる人物なので余裕で袁家の人間になりますね。

 

だからこそ袁紹から并州を任されており、

袁紹亡きあとも、袁譚が青洲、袁煕が幽州、袁尚が冀州と並んで一州を統治していたのでした。

 

あくまで袁紹と繋がりがあったからこその并州を任されたのです。

 

 

そんな高幹でしたが、最初こそ袁尚に力を貸していたものの、

曹操に敗れてからは降伏して大人しくしていました。

 

それが袁尚・袁煕が追いやられ、袁譚が斬られたタイミングで反乱を起こしたわけです。

 

 

そして高幹に呼応する形で黒山賊の張白騎が加担!

また張白騎以外にも高幹の反乱に呼応する者達が続出し、反乱は大きなものとなっていきました。

高幹に味方した黒山賊の一頭領、張晟(張白騎)

 

 

この張白騎らの討伐の為に、張既は再度馬騰の協力を仰ぎます。

そして張既の呼びかけに応じた馬騰らが張白騎らの討伐にあたったようです。

 

余談ですが、ここでの龐徳の活躍は計り知れないほどだったと言います。

戦えば戦うだけ勝利するといった形で・・・

 

 

もちろん張既自身も鍾繇・杜畿・賈逵と協力して、張白騎らの討伐にあたったのでした。

 

そして最終的には壺関に立てこもる高幹を打ち破り、

最終的に高幹は処刑されたことでこの戦いに決着がついたわけですね。

袁一族として最後の意地を見せつけた高幹

曹操の南方攻略に際しての不安を取り除く

曹操が華北を統一し、荊州・揚州などの南方攻略に乗り出そうと計画するのですが、

曹操にはどうしても気になることがありました。

 

それは涼州の馬騰や韓遂のような何度も涼州や雍州で反乱を起こしたことがある勢力でした。

馬騰や韓遂は曹操に表向き上従ってはいたものの、いつ裏切るかもわかりません。

 

それぐらい気紛れに反乱を起こしていたからです。

 

そこで曹操は馬騰の軍勢を解散させて、中央にくるように命じます。

 

 

これに馬騰はなかなか応じません。

 

 

そこで張既が馬騰が反乱を起こしても対応できるだけの準備を整えた上で、

馬騰を迎える為に遠くまで出迎えに向かわせたのでした。

 

これに対して馬騰はもう断るに断れず、

息子の馬超に軍勢を託す形で、息子の馬鉄・馬休を連れて中央へ向かうのでした。

 

 

張既の働きで後方の不安を大方取り除けたことで、

曹操は本格的に南方攻略に乗り出していくこととなります。

「涼州(西涼)の雄」馬騰

馬超・韓遂による潼関の戦い

蒼天航路(27巻131P)より画像引用

 

曹操が赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍に敗れてから三年後、

馬超・韓遂ら関中十部による反乱が勃発します。

 

馬超・韓遂ら反乱軍と曹操は潼関で対峙しますが、

反乱軍は非常に強く、曹操も色々と苦戦を強いられます。

 

 

最終的には賈詡の離間の計によって韓遂と馬超の信頼関係は崩れてしまい、

潼関の戦いは曹操の勝利に終わったのですが、

 

この時には張既も戦いに参加しており、潼関の戦い以後も更に西方に進軍して関北を平定しています。

 

 

この時の功績から、張既は京兆尹に任じられたわけですが、

京兆尹とは洛陽周辺の統治を任されたといえばわかりやすいかもしれませんね。

 

洛陽周辺の地域を任されたというのだから、曹操にとって大変信頼を置いての任命だったのでしょう。

この時の張既の統治手腕は大したものだったそうですよ。

雍州刺史に任じられた張既

それから少しして、張既はほとんど地元であった雍州の刺史に任じられています。

 

正確には馮翊ひょうよく郡・高陵こうりょう県の出身なので、

実際は長安の近くではあるんで微妙に違うのですけど・・・。

 

 

この時に曹操が張既に向けて、

「錦を衣て昼行く」と言った言葉なんてのは今に伝わっていますね。

 

まぁ一般的には項羽の故事でもある「錦を衣て夜行くが如し」とは聞いたことがあるかもしれませんが、

それを曹操なりに洒落てもじった激励した言葉になります。

錦を衣て昼行く ~曹操らしさが出ている言葉~

 

 

雍州刺史となった張既ですが、

張魯討伐の際には、雍州刺史として曹操の別動隊として参加していますし、

 

 

張魯が曹操に敗れて降伏して漢中を治めると、

 

漢中に住む人々を黄巾の乱・董卓の台頭・涼州の反乱などのせいで、

大きく人口が激減していた長安などへ住民を移住させるように曹操に提案したりしています。

 

 

その後も韓遂同様長らく反乱を繰り広げてきた宋建を討ち取られた時も、

張既は夏侯淵に従って戦いに参じています。

 

ちなみにこの時は、夏侯淵と別動隊という形で参加したというのが正確な所なんですが、

臨洮・狄道あたりの賊を討伐して手柄をあげたのでした。

劉備による漢中侵攻

劉備が漢中へ攻め込んでくると、夏侯淵を討ち取られたりと苦戦を強いられてしまいます。

 

その後曹操自ら援軍として登場するものの、

守りに徹する劉備を崩すことができず撤退を余儀なくされます。

 

楊脩による「鶏肋」の話は有名ですよね。

誤った才能の使い方をしたが為に死を招いた楊修(楊脩/ようしゅう) 〜「鶏肋」「才は才に滅ぶ」~

 

 

曹操は劉備が漢中を手中に収めたことで、

氐族と手を結んで、長安など関中方面まで侵攻してくることを恐れていましたが、

 

張既は「多くの氐族が住んでいる武都近辺から、彼らを北方に移せばその悩みも解決するでしょう」と進言し、

その言葉を聞いた曹操は「なるほど!」と納得し、すぐに実行に移させたそうです。

 

 

とにかくこの三国時代は多くの人が死んでいった時代で、

黄巾の乱以降、各地の人口が激減していました。

 

だからこそ漢中攻略したときもそうですが、

劉備などに民衆が流れることがないように対応していたのです。

 

人がいなければ国は成り立ちませんから・・・

 

 

今回のことで言えば、劉備と結ぶことを事前に防げ、

人口も確保できるという一石二鳥の効果があったわけですね。

圧倒的機動力を武器とした将軍、夏侯淵

涼州・雍州の反乱で活躍し続けた張既

張既は曹操からの絶大なる信頼を受けており、

雍州を中心に涼州など異民族が多いこの地域の反乱などを毎回見事に解決に導きます。

 

 

曹操が亡くなり、曹丕が跡を継いで魏を建国するわけですが、

 

曹丕も張既のことを大変高く評価しており、

「涼州は張既以外の人物では治めることは不可能だ!」と言わしめたほどでした。

 

 

実際に張既以外の者が涼州刺史に任じられたりしたこともありましたが、

豪族や異民族の反乱が相次ぎ、どうにもならない状態になることもあったそうです。

 

なによりその反乱鎮圧に失敗したりで捕まったり追われる者も多かったそうで・・・

 

 

涼州で伊健妓妾・治元多・封賞が反乱を起こした際は、

曹丕は迷わず張既を涼州刺史に任じて、これにあたらせています。

 

 

張既は後詰めとして送られていた夏侯儒・費曜を待たずに強行軍で武威まで一気に進み、

あまりの張既軍の到着の速さに伊健妓妾・治元多・封賞らは驚いたといいます。

 

また戦いが始まってからも張既は臨機応変に伏兵を用いたりしながら、

伊健妓妾・治元多・封賞の反乱は見事に鎮圧されたのでした。

 

 

その後も何度も反乱が相次ぎますが、その度に張既は見事にこれを収めることに成功しており、

張既の名声は一気に広まっていったのでした。

張既への恩に報いた游楚

涼州・雍州方面で活躍し続けた張既でしたが、

223年に生涯に幕を下ろします。

 

余談にはなるというか、上でも少しだけ触れていましたが、

張既がまだ幼かった頃に、游殷から息子の游楚について託されたことがありました。

 

張既は游殷からの願いを抜きにしても游楚のなみなみならぬ才能に気づき、

曹操に「漢興太守は誰にしたら良いのか?」と問われた際には、游楚を推薦しています。

 

曹操は張既の言葉を聞き、游楚を漢興太守に任じ、

その後に隴西太守を任させたのでした。

 

 

その後諸葛亮が北伐(第一次北伐)を起こすと、

 

天水・安定・南安が諸葛亮に降伏する中で、

游楚が守る隴西郡だけは降伏せず、城を最後まで守り通しています。

 

游楚は小さいころから自分を気にかけてくれた張既への恩を忘れず、

どんな不利な状況であったとしても、張既から受けた恩になんとしても報いたかったのかもしれませんね。

 

もしも他の三郡のように隴西郡も降伏していたならば、

張既にあの世で詫びる事すらできないと・・・

 

 

そのあたりについての游楚の想いは分かりませんが、

馬謖が街亭の戦いで張郃に敗れて、諸葛亮は三郡を捨てる形で漢中へ撤退しますから、

 

この時に游楚が城を守り通していなければ、

その後も天水・安定・南安の三郡はそのまま蜀の領地だった可能性は十二分にあったわけです。

 

それほど重要な土地であったのが、隴西郡だったのです。

 

 

それを亡き張既に代わって、

游楚が守り抜いたというのも素敵な話だなと私は思いますね。

 

また游楚を太守に推薦した張既も張既ですが、

苦しい状況で張既の期待を裏切らなかった游楚もさすがだといわざるをえません!!

諸葛亮の第一次北伐が水泡に帰した最大の原因を作った隴西太守、游楚(ゆうそ)