姜維(きょうい、字:伯約)

姜維は、涼州天水郡冀県の出身で、

諸葛亮亡き後の蜀漢において軍事の中枢を担い、

その生涯を通じて北伐の理想を追い続けた人物として知られています。

 

姜維の一族は、天水郡で大きな影響力を持った豪族でした。

当時の天水郡には「姜・閻・任・趙」の四姓があり、「天水四姓」と称される名門として知られていました。

姜氏もその一角を占めており、地域社会に深く根を下ろした有力家系でした。

 

しかし姜維は恵まれた環境の中で育ったわけではありません。

父の姜冏きょうしょうは郡の功曹を務め、異民族討伐に従軍して戦死しました。

そのため姜維は幼くして父を失い、母の手によって育てられています。

 

正史『三国志』によれば、姜維は若い頃から学問を好み、

とりわけ後漢最大の経学者であった鄭玄の学説を深く尊重していました。

もっとも、鄭玄は姜維が生まれる前後に亡くなっているため、直接教えを受けたわけではありません。

姜維が建安7年(202年)生まれであるのに対し、

後漢最大級の儒学者・鄭玄は建安5年(200年)に没していることです。

したがって、姜維が直接鄭玄に学んだ可能性はありません。

 

考えられるのは、

  • 父の姜冏が鄭玄の門流に属していた
  • 鄭玄の著作や学説を独学した

といった可能性ですが、史料に明記はありません。

 

おそらく鄭玄学派の書物や門人たちの学説を通じて、その思想に触れたのでしょう。

後年の勇将としての姿からは想像しにくいものの、姜維は本来、文武両道の教養人だったのです。

魏の官吏から蜀の将軍へ

青年期の姜維は天水郡に出仕し、上計掾として行政実務に携わりました。

その後、州に推挙されて郎中となり、さらに中郎として郡の軍事に参与する立場に昇進します。

「上計掾」とは地方政治の状況を朝廷へ定期的に報告するといった役目であり、

「郎中」は簡単に行うと、将来の官僚候補になります。

 

一方で「中郎(参天水郡軍事)」は、天水郡の兵士を指揮することができる官職であり、

姜維が任命されたタイミングは、おそらく太和元年(227年)頃ではないかと思っていますが、正確な記録は今に伝わっていません。

 

しかし建興6年(228年)、

諸葛亮が第一次北伐を開始すると、その運命は大きく変わりました。

 

当時の天水太守馬遵は、諸葛亮の調略によって周辺郡県が動揺する中、

姜維や梁緒・梁虔・尹賞らを疑い、自ら上邽へ逃亡します。

 

姜維らは馬遵を追いましたが城門を閉ざされ、さらに本拠の冀県にも入ることができませんでした。

 

魏に忠誠を尽くそうとしても受け入れられず、

帰る場所を失った姜維は、やむなく諸葛亮のもとへ身を寄せることになります。

これは演義で描かれるような巧妙な計略による投降ではなく、正史では「疑われ、行き場を失った末の帰順」と記されています。

「蜀志」姜維伝(裴松之注「魏略」)には、姜維は冀県の民衆に歓迎されたと残されています。

諸葛亮が見出した後継者

諸葛亮は姜維の才能を高く評価しました。

 

彼は姜維について、

「忠勤にして思慮精密、涼州随一の人物である」

と称え、

「軍事に通じ、勇気があり、兵士の心理をよく理解している」

と絶賛しています。

 

街亭敗戦後、諸葛亮は姜維と天水の住民千余戸を漢中へ移し、倉曹掾・奉義将軍に任命しました。

以後、姜維は諸葛亮の北伐に従軍し続け、中監軍・征西将軍にまで昇進します。

 

蜀において、外様出身者がここまで重用された例は極めて稀でした。

それだけ諸葛亮が姜維を高く買っていたことが分かります。

第一次北伐で降伏した梁緒・梁虔・尹賞のその後の人生

諸葛亮死後の蜀漢を支える

建興12年(234年)、五丈原で諸葛亮が病没すると、蜀軍は撤退を開始しました。

この際、魏延と楊儀の対立が表面化し、一時は内乱寸前の事態となります。

 

姜維は楊儀側として行動し、混乱する軍をまとめながら無事に撤退を成功させました。

帰国後は右監軍・輔漢将軍となり、平襄侯に封じられます。

 

その後、蒋琬・費禕という二人の執政を補佐しながら、

軍事面で頭角を現し、蜀軍の中核を担う存在へと成長していきました。

北伐への執念

蒋琬は比較的慎重な戦略家でしたが、

姜維の能力を高く評価し、西方防衛を任せています。

 

一方、費禕は諸葛亮以上の成果を望むべきではないと考え、大規模北伐には否定的でした。

そのため姜維に与えられる兵力は一万前後に制限されていました。

 

しかし延熙16年(253年)、

費禕が魏の降将郭循によって暗殺されると状況は一変します。

軍権を掌握した姜維は、本格的な北伐を繰り返すようになりました。

ただ姜維の北伐は単なる名誉欲ではありません。

 

彼は涼州出身者として現地事情に精通しており、

羌族・胡族との連携によって涼州を奪取し、魏の西方防衛線を崩そうと考えていました。

これは諸葛亮が目指した隴右攻略路線を受け継ぐ戦略でもありました。

栄光と挫折

姜維は何度も魏軍を苦しめています。

延熙17年(254年)には狄道周辺で成果を挙げ、

延熙18年(255年)には洮西の戦いで王経軍を大破しました。

 

この勝利は諸葛亮死後の蜀軍最大級の戦果ともいわれます。

しかし決定的な成果には至りませんでした。

 

延熙19年(256年)の段谷の戦いでは鄧艾に大敗し、多くの兵を失います。

姜維は自ら責任を取り、大将軍から後将軍へ降格しました。

この敗北を境に蜀国内では北伐への不満が強まり、譙周や張翼、廖化らからも批判が向けられるようになります。

黄皓との対立

晩年の姜維を苦しめたのは魏軍だけではありませんでした。

宮中では宦官黄皓が権勢を振るい、政治を左右する存在となっていました。

姜維は黄皓の専横を危険視し、劉禅へ排除を進言しましたが聞き入れられませんでした。

 

逆に黄皓は姜維の失脚を画策し、朝廷内での孤立は深まっていきます。

こうして姜維は成都から距離を置き、漢中方面に留まり続けることとなりました。

 

景耀6年(263年)、司馬昭は鍾会・鄧艾・諸葛緒らに命じて蜀へ総攻撃を開始します。

姜維は剣閣で鍾会軍を完全に足止めし、防衛戦では優れた手腕を見せました。

実際、正面からの突破はかなり難しい状態でした。

 

しかし鄧艾が陰平道という険路を突破し、江油から成都平原へ侵入します。

綿竹では諸葛亮の子・諸葛瞻が戦死し、成都は無防備となりました。

劉禅は降伏を決断し、ここに蜀漢は滅亡します。

 

剣閣で戦っていた姜維は最後まで抗戦を望みましたが、君主の降伏を受け入れざるを得ませんでした。

余談ではありますが、蔣斌しょうひん王含おうがん柳隠りゅういんの三人は、

漢中の前線ともいえる城を最後まで守り通しています。

  • 漢城を守る蒋斌(しょうひん)
  • 楽城を守る王含(おうがん)
  • 黄金城を守る柳隠(りゅういん)

最期の大博打

降伏後、姜維は鍾会のもとに身を寄せます。

鍾会は彼を非常に高く評価し、常に側近として遇しました。

 

しかし姜維は諦めていませんでした。

彼は鍾会の野心を見抜き、反乱を起こさせて魏軍内部を混乱させ、その隙に蜀漢復興を図ろうとします。

 

まず鄧艾を失脚させることに成功し、鍾会も独立への野心を強めました。

しかし計画は途中で露見し、景元5年(264年)、成都で発生した軍の暴動によって鍾会と共に討たれます。

これにより「蜀漢復興」という夢は果たされずに、姜維は生涯に幕を下ろしたのでした。

 

そんな姜維への評価は古来大きく分かれていますが、

姜維と敵味方として関りが深かったであろう以下の四名は、姜維を高く評価しています。

  • 諸葛亮「涼州随一の英才」
  • 鍾会「諸葛誕や夏侯玄も及ばない」
  • 鄧艾「当代の英雄である」
  • 郤正「姜維殿は高官でありながら質素な生活を送り、私財を蓄えなかった人格者である」

 

また正史「三国志」に注釈をつけた裴松之は、姜維について肯定的な意見を述べています。

一方で譙周や廖化らは、終わりの見えない北伐が国力を消耗させたと批判しています。

 

ちなみに正史『三国志』の著者である陳寿は、

「文武に優れた人物であったが、国力を顧みず北伐を続けたため蜀の衰亡を早めた」

と姜維のことを評価しています。

 

 

姜維は単なる武将ではありませんでした。

諸葛亮の理想を継ぎ、衰えゆく蜀漢を支え続けた最後の柱でした。

 

その北伐は無謀だったという評価もあります。

しかし彼が生涯を通じて追い求めたものは私利私欲ではなく、「漢室復興」という蜀漢建国以来の大義でした。

 

もちろん姜維は大義を成し遂げた英雄ではありません。

それでもなお、滅びゆく国家のために最後まで剣を握り続けたその姿は、

三国時代屈指の悲劇的英雄として、今なお多くの人々を魅了し続けています。