蜀の柱として支えた人物として名が挙がる人物に、
諸葛亮・蔣琬・費禕・董允をの四人がいますが、
この四人を総称して「蜀の四相」と呼ばれたりします。
他にも「四英」とも呼ばれる事もあるようですが・・・
その中の費禕は諸葛亮に後事を託された一人であり、
延熙九年(246年)に蒋琬・董允が相次いで亡くなる中、
延熙十六年(253年)に亡くなるまで、国を支え続けていくことになるのでした。
目次
若かりし頃の費禕(文偉)
諸葛亮亡き後の後事を託された蒋琬同様に、
もともと費禕も蒋琬同様に荊州出身の人物になります。
蒋琬は荊州零陵郡の出身なので、
荊州江夏郡出身である費禕とは少しだけ違う場所ではあるんですけどね。
他にも蒋琬が劉備が荊州南部を支配した時に仕えたのに対して、
費禕は劉備が益州の劉璋を降した時に仕えている違いはあったりします。
費禕が当時益州にいたのには理由があり、
費禕の両親は早くに亡くなっていた為に、
費禕の一族である費伯仁のもとに身を寄せていたことがきっかけでした。
そして費伯仁が費禕を連れて益州に赴いた経緯としては、
費伯仁の叔母(姑)が劉焉の妻(劉璋の母親)であった費氏という縁から、
劉璋に呼ばれて費伯仁は益州を訪れたという流れになりますね。
劉備に仕官した費禕
劉備が劉璋を降して益州の主になると、
費禕は劉備に召し抱えられることとなります。
費禕は董允と親友でありながら、共に劉備から高く評価された人物でもあり、
二人は劉備が蜀漢を建国した際に、劉禅の補佐(黄門侍郎)を任されていますね。
費禕と董允の逸話に関してはいくつか残されていますが、
董允の父親である董和が、
息子である董允と費禕がどちらの方が優れているのかについて董允に語った逸話は、
二人の逸話としては一番有名かもしれません。
それ以外にも董允が費禕の担っていた尚書令を引き継ぐことになった際の話もありますね。
費禕がプライベートを充実させながら、
職務を完璧にこなしていたことを知っていた董允は、費禕を真似た事がありました。
しかしあまりの仕事の多さに、
「これだけ忙しいと遊ぶ時間なんて取れたものではない。
これほどまでに私と費禕殿の間に、
能力の差があろうとは思いもしなかった。」
と嘆いた逸話もあったりします。
ただそのように冷静に判断できるということは、
董允もまた優れた人物であったとも言えるのですけどね。
孫権を感心させた費禕の才能
劉備が夷陵の戦いで陸遜に大敗を喫し、
翌年の223年に白帝城で没してしまうわけですが、
その後に雍闓が南方にて反乱を起こし、
高定・朱褒らを巻き込んだことで大規模なものに発展していきます。
ちなみに雍闓が、孫権と通じていたのは余談です。
そして諸葛亮が雍闓らの反乱討伐に成功して帰還した際には、
諸葛亮の馬車に同乗するほどの待遇を受けたといいます。
また諸葛亮は反乱討伐の成功を孫権に伝えておく必要性を感じ、
この使者(外交官)を任されたのが費禕でもありました。
一方で孫権には費禕が使者として訪問する事を事前に知らせており、
孫権は諸葛恪・羊衜に費禕が困りそうな質問を事前に作らせていました。
まぁ孫権のいつもの嫌がらせですね。
ちなみに軽く補足しておきますが、
羊衜は魏晋に仕えた羊祜の父である羊衜とは別人の人物です。
三国志の中には沢山登場しますが、同姓同名の人物ですね。
孫権は費禕と面会すると、
事前に諸葛恪・羊衜に作らせた質問を費禕に投げかけました。
しかし孫権の思惑を裏切るかのように、
費禕は何事もなかったかのようにそれに対して見事に返答したのでした。
そこで孫権は今度は費禕に酒を飲ませた上で、
今度は酒で酔わせて、費禕がボロをだすように仕向けたようです。
そして費禕が酔った頃合いを見計らって、
今度は国事や情勢についての難しい質問をしてきたのですが、
酔っ払っていた費禕はまともな回答ができない可能性があると判断し、
一旦退出すると酔いがさめるのを待ったのでした。
そして孫権の質問に対して箇条書きでしたためて、孫権へと見せたわけです。
その回答の見事さに、孫権は費禕に対して、
「費禕殿は天下に響く徳を備えた人物であり、
近い未来に蜀の重鎮となるだろう。
そしたら今のように簡単に会う事はなくなるだろう」と費禕に語ったといいます。
そして孫権が言ったように費禕は帰国すると侍中に任命されています。
その後も順調に出世を続けたことで、
最終的に呉に赴いて孫権と面会するなんてことはなくなっていったのでした。
諸葛亮を陰ながら支え続けた費禕
諸葛亮が北伐を行う際に活躍した人物に魏延と楊儀がいました。
諸葛亮にとって勇猛な魏延は魏と戦う上で必要な人物でしたし、
後方で前線に武器などの輸送を担当していた楊儀も必要な人物であったのです。
しかし二人はお互いにいがみ合っていたわけです。
ただ双方が別々の分野で活躍していたお陰で北伐が成り立っていた事も事実であり、
二人の仲裁役として入っていたのが費禕でもありました。
このことから「三国志」を著した陳寿は次のようにも言っています。
「魏延と楊儀がなんとか使い物になったのは、
費禕のお陰であった」と・・・
しかし諸葛亮が五丈原で亡くなると、魏延と楊戯の二人は争いだしたのです。
そして半ば見捨てられたような形で命を落としたのは魏延でした。
この時に楊儀は魏延の首を足で踏みつけて、
「これではもう悪さもできまい!」と言い放ったといいます。
しかし自分より若輩だと思っていた蒋琬が諸葛亮の後事を託され、
楊儀は思ったように出世できなかったことで、不満を募らせていくこととなります。
そしてふとした時に費禕に対して、
「諸葛丞相が亡くなった時に、
魏に降伏していればもっと出世していただろうに・・・」
と愚痴を漏らしたことで、費禕はこれを劉禅に告げ口をしたのでした。
楊儀はこれまでの功績から処刑こそ免れたものの、
庶人に落とされて漢嘉郡へと流罪にあい、最終的に自害して果てたと言われています。
楊儀と魏延が争った際には楊戯に味方した費禕、
一方で楊儀の件を劉禅へと伝えた費禕、
費禕によって使い物になっていた二人でしたが、
最後まで二人の命運を握っていたのが費禕であったというのも無情な所ですね。
完膚なきまでに叩きのめされた曹爽(興勢の役)
景初三年(239年)に曹叡がなくなると、曹芳が跡を継ぎます。
この時に曹叡の遺言もあり、曹芳を補佐する立場として
司馬懿と曹爽の二人が抜擢されたわけですが、
司馬懿と曹爽の関係は次第に悪い方へと向かっていったのでした。
そして司馬懿を半ば追い出した形で、
曹爽がやりたい放題にやっていくようになるわけですが、
その際に蜀漢討伐を企てた事がありました。
しかし曹爽の討伐軍は漢中を守っていた王平によって防がれ、
そこに費禕らが援軍としてやってきたことで、曹爽らは大敗北を喫しています。
この戦いは一般的に「興勢の役」と言われていますが、
戦に挑む前の費禕の逸話が今に伝えられています。
これは非常に空気が読めない人物で、
諸葛亮が苦手とした人物としても知られる来敏が、
戦いを前にした費禕に囲碁の勝負を挑んだことがありました。
ちなみに戦いと歯全く関係ないですが、来敏という人は96歳まで生きた人物ですね。
費禕はこれから戦いという大事な時期だったにも関わらず、囲碁の申し出を引き受けています。
そして平然と囲碁を打ち続ける費禕の様子を見た来敏は、
「戦いを前にして、
それだけ冷静でいられるならば問題はないだろう」
と「何様!?」というぐらいに上から目線の言葉をかけたと言われています。
そして囲碁を終えて戦地に赴いた費禕ですが、
王平と連携して曹爽率いる魏軍を叩きのめした流れになりますね。
蒋琬の跡を託された費禕
諸葛亮死後に蒋琬が諸葛亮の後事を引き継ぎ、費禕も董允らと共に蒋琬を支えています。
蒋琬は諸葛亮が成し遂げられなかった北伐を行う事にも意欲的な人物でしたが、
この点だけに関して言えば、
費禕は「北伐反対」という考えが根本にありました。
また蒋琬の北伐は諸葛亮の行った北伐と大きく異なり、
漢水(水路)を利用して上庸・襄陽方面へ攻め込むというものでした。
この蒋琬の北伐の考えを聞いた際に、
「危険すぎる!」と大きく反対した事で実現には至らなかったのですが・・・
これは費禕だけではなく、多くの他の者達も反対していた事でも知られていますね。
そんな中で蒋琬だけでなく、董允までもが246年に連続して没すると、
費禕は多くの役目が任されるようになっていきます。
そして費禕は北伐には消極的ではあったものの、
諸葛亮・蒋琬同様に魏に備えた形をとりつつ、漢中に駐屯しながら政務をとっています。
またこの時に蜀のNo2にまで上り詰めていた人物に姜維があげられますが、
北伐をを強く望んでいましたが、それが費禕が生きている間に叶う事はありませんでした。
ただ全く北伐をさせなかったのかというとそうではなく、
涼州の反乱に乗じさせる形で一万人程度の兵を率いらせたりはあったようですね。
そんな兵数では結局どうにもならずの結果でしたが・・・
まぁ費禕としては、姜維が北伐で大敗を喫したとしても、
国が揺るぐことのない程度の兵力しか許可しなかったと取る方が正解かもしれません。
この時に費禕が姜維に次のように言った言葉が残っています。
「諸葛丞相でさえ、
中原を平定することはできなかったのだ!!
ましてや我々では・・・」
費禕の最期(殺害)
延熙十六年(253年)正月に事件が発生しました。
魏から蜀に降っていた人物に郭循という人物がいたのですが、
費禕が開いていた宴にも招かれていました。
しかしここで予想だにしない大事件が発生してしまいます。
費禕が郭循によって殺害されてしまったのです。
これにより蜀滅亡への道が加速していく事となります。
ちなみに費禕は常日頃から質素な生活を心掛けていただけでなく、
私腹を肥やすこともなかったといいます。
そして自分の子供達にさえ贅沢させることはなく・・・
そんな費禕に対して陳寿は、
「費禕は寛容な人物で、
諸葛亮・蒋琬の跡を継いで国家安定に努めたことで国を安定させた。
しかしながら公務以外での身の拠り所が十分でなかった。」
ときちんと費禕の功績を評価しつつも、
最後の死は費禕が招いたものでもあったというふうに書き残しています。
ちなみに陳寿の書いた「三国志」に注釈を加えた裴松之は、
「費禕は優れた人物であった」と書くだけで充分で、
「わざわざ費禕を非難するような言葉を、
同時に残す意味がわからない」と言ってますね。