253年に魏の降将であった郭循かくじゅんによって、

大将軍であった費禕が殺害されるという事件が発生します。

 

ただこの殺害事件には多くの謎が残っているものの、

その真実の多くが闇に隠れたままだというのもまた事実です。

 

 

ここでは正史に残る少ない記述の中から、

郭循についての費禕殺害の真相を可能な限り紐解いていきたいと思います。

郭循が蜀に降ったのはいつ?

郭循は郭脩と呼ばれることがあった人物で、

普段より品行に優れていたという風に書かれています。

 

そんな郭循ですが、姜維と同じく涼州の出身だったようです。

姜維は涼州天水郡、一方の郭循は涼州西平郡なんで涼州での郡までは同じではないですが・・・

 

 

郭循は費禕殺害でいきなり名前が出てきて消えていったイメージが強すぎますが、

実際郭循がどういう経緯で蜀に降っていたのかについてですが、

 

姜維が郭循がいた西平郡を攻撃した際に、

捕虜となってしまったことがきっかけのようです。

 

 

この時に郭循は姜維の脅迫には応じずに姜維に従う事はなかったそうですが、

強制的に蜀に連れていかれたようで、結果として郭循は蜀に降ったという感じになっています。

 

ここで注目したいのは、

姜維が西平郡を攻撃した時といえば249年ということです。

 

 

費禕の反対にあっていたこともあり、

 

多くの兵を率いることができなかった姜維は、

この西平郡への侵攻も結局は失敗に終わってはいますが・・・

 

そう考えると、郭循が蜀に降ったタイミングは、

この249年だということになりますね。

何故郭循は左将軍に任じられたのか?

蜀に降った形となった郭循ですが、

前漢時代からの伝統職でもあった左将軍に任じられています。

 

漢王朝の後継王朝としていた蜀にとっては、

非常に意味がある役職だったのは言うまでもありません。

 

 

なので劉備が漢中王を名乗った際に

馬超が任じられたのが郭循と同じ左将軍にあたることからも、

 

どれだけ格式のある役職だったかがわかりますね。

 

 

せっかくなので他の前後左右将軍もあわせて紹介しておくと、

以下のような層々たる面子が任命されています。

  • 関羽(前将軍)
  • 張飛(右将軍)
  • 馬超(左将軍)
  • 黄忠(後将軍)

 

またこれに趙雲を加えたのが、三国志演義での五虎大将軍になります。

三国時代の将軍職(一品官から五品官)&歴任者について

 

 

郭循は魏にいた際の役職は「中郎」と正史にあるので、

それほど高い役職でなかったことが分かります。

 

そんな郭循が蜀で、これほどまでの大抜擢に繋がったのかは、

はっきりいって疑問が残りまくります。

 

 

そこで注目したいのは郭循の姓が「郭」であり、

涼州西平郡の「郭」と言えば、この地域の豪族の一族ですね。

 

そしてこの郭一族で、真っ先に思う浮かぶ人物がいるんですよね。

それが曹叡の妻にもなった「郭氏」です!!

 

曹叡が死んで曹芳が跡継ぎになった際に、皇太后に任命され大きな権力を握った人物でもあります。

 

 

このあたりは推測になってはしまいますが、

「郭循は郭氏の縁戚にあたる人物ではなかったか!?」という点ですね。

 

だからこそ姜維は郭一族に敬意を表す意味でも、

姜維が郭循を左将軍に任じるように上奏したのではないかという事・・・

曹叡の寵愛を受け、司馬一族にも物怖じしなかった郭氏(郭皇后/郭太后/明元皇后)

 

他にも夏侯一族である夏侯覇が、

短期間で車騎将軍にまで出世した話は有名ですし。

 

まぁ夏侯覇の場合は、

張飛の妻(劉禅の母親)が夏侯氏という夏侯一族だった背景もありますけどね。

郭循を左将軍に上奏したと仮定した場合の姜維の思惑とは?

では姜維が何故に郭循を左将軍に任じるように上奏したかというと、

曹叡の妻である郭氏、はたまた郭一族に配慮しただけが目的ではなかったと思います。

 

まぁここでの話として、姜維が上奏したという前提で話は進みます。

 

 

郭一族といえば、涼州西平郡の力を持った豪族で、

郭氏が曹叡の妻になってから更に力をつけた一族だっただけに、

 

北伐の際に涼州に力を持った郭一族の影響力を利用できると、

姜維は単純に考えたのではないかとかと思ったりするわけです。

 

でないと、郭循が例え郭氏の縁戚だったとしても、

左将軍にまで抜擢されるのは無理がありすぎると思いますしね。

姜維 -最後の最後まで蜀を想って足掻き続けた将軍-

郭循は魏の刺客だったのか?

次に郭循が何故費禕を殺害したのかについて考えてみたいと思います。

 

上でも少し書いていましたが、

郭循が捕虜になった際に、姜維に脅迫されるも従わなかったとあります。

 

 

これは郭循が魏に忠義を尽くしていたといえるわけで、

最終的に蜀に降ることを考えた際に色々考えたのかもしれませんね。

 

ここで犬死するのではなく、

どうせなら魏の為になる機会を待とうと考えた可能性もあると思います。

 

 

そして259年正月にチャンスが回ってきたのかもしれません。

 

何故なら蜀の第一人者であった大将軍の費禕が、

魏討伐の為に梓潼郡漢寿県まで軍を進めてきていたからですね。

 

 

そして費禕が正月というのもあって、

宴席で完全に油断していたタイミングしかないと思ったのでしょう。

 

後は酔ったふりをして費禕に近づき、

そのまま費禕を刺殺したという流れですね。

 

 

 

この費禕殺害事件は、

「郭循が魏の刺客だった!」という話も多いですが、

 

私はさすがに刺客ではなかったと思っています。

 

 

郭循は費禕殺害に成功した後に、

すぐさま周りに取り押さえられて殺害されたわけですが、

 

費禕殺害を聞いた魏では、郭循に対して「長楽郷侯」に封じて、

「威侯(贈り名)」を追贈しています。

 

 

そして魏が郭循を追贈したのは、

 

「蜀に降っても、祖国に対する忠義心を忘れずに、

敵である蜀に一矢報いたからだ」ということだそうです。

 

 

ちなみにこの記載が残っているからこそ、

郭循が魏の刺客だったという説が根強かったりしますね。

 

ただ私は深く勘繰りすぎず、この通りに受け取っていいような気がします。

 

さすがに魏の郭循は中郎レベルの役職でしたし、

魏と通じつつ、約3年かけて費禕を殺害したというのも無理がある気がします。

 

 

また郭循が郭氏の縁戚であったならば、

名誉回復の意味でも「侯」に封じたのも理解できますから・・・

 

何故なら曹叡の跡を継いだ曹芳が皇帝になっており、

曹芳の後ろ盾として郭氏が絶対的権力を手に入れていたわけですからね。

 

 

だからあくまで私の見解ではありますが、

世間一般で言われることも多い郭循刺客説は違うかなと思っています。

 

 

あくまで郭循単独犯だった可能性が高いという事で、

 

それが蜀に降った時から考えていたのか、

それとも蜀で過ごすうちに突拍子的に考えたのかは想像するしかありませんが・・・

費禕 -蜀漢を支え続けた最後の「四相(四英)」-