劉備に最後まで忠誠を尽くした習珍でしたが、
習珍には習温という息子がいました。
習温は習珍亡き後は呉に仕えているのですが、
ここでは習珍の忘れ形見である習温の生涯や逸話について紹介していきます。
そこには父親である習珍と父の敵でもある潘濬の子孫に渡っての付き合いが見えてくると思います。
習珍の息子、習温(しゅうおん)
習温は父親同様に荊州襄陽郡の出身ですが、
呉に仕えた詳しいいきさつはよく分かっていません。
ただ荊州争奪戦で最後まで抵抗を続け、
犬死を避けて、後に劉備に呼応する道を選んだ父親の習珍!
この時に一時的に呉に降っているわけなんですけど、
習珍の弟である習宏や息子であった習温は、
そのまま呉に仕え続けたとみるのが自然かなと思います。
何故なら習珍が夷陵の戦いで劉備に呼応し、
習珍の討伐に任じられた元蜀臣である潘濬と1カ月にわたって戦いを繰り広げるものの、
最終的には食糧が尽き、弓矢も尽きたことで自害して果てています。
この時に習宏や習温が習珍と共に反乱を起こしていれば、
記載が残っているのが普通でしょうし、
そんな記録は残っていない為、
一時降伏した時から仕え続けたというのが自然かなと思いますね。
まぁ息子の習温に関しては、そういうこと抜きにして、
単純に若すぎたから呉にそのまま滞在していたのでしょう。
潘濬と習温の逸話
父親である習珍の仇でもある潘濬ですが、
習珍が潘濬に高い評価を受けていたこともあってか息子の面倒を見ています。
習宏も習珍も連座の罪で罰せられることがなかったということですね。
習温に対しての潘濬の評価も高く、
「この子は名士であり、
必ず荊州(襄陽郡)を代表するような人物になる!!」と評しています。
そして潘濬の援助もあってか、
習温は潘濬の予想通りにに立派な人物に成長していくこととなります。
結果として習温は、長沙太守・武昌太守・選曹尚書・広州刺史といった高官を歴任し、
宮仕えが三十年にまで及んだようです。
ただ習温は高官を歴任しながらも、権力にしがみつくような真似はしませんでした。
呉が滅亡した際には、洛水のほとりに屋敷を設けて、
ゆったりと隠居したような生活を送っていたともいいます。
そんな張温でしたが酒豪だったらしく、簡単に酔う事はなかったそうです。
ただ習温がいつ死んだのかは分かりませんが、
呉の滅亡後まで生きていたことは間違いないですので、
父親が死んだのが221年で、この時に10歳ぐらいだとすると、
呉が滅亡したのが280年なので、それでも71歳までは生きたことになりますし、
221年の時が何歳だったのかが分からないので何とも言えませんが、
80歳あたりまで長生きした可能性は十二分にあるかなと思っています。
息子である習宇との逸話
習温には習宇という息子がいましたが、執法郎という官職を任されていました。
そんな曹宇ですが、
仕事の合間に慌ただしく家に帰ってきたことがあったそうです。
この時に曹宇は豪華な馬車に乗って、
多くの者達にお供をさせていたといいます。
この様子をたまたま見た張温は、
「乱世の世に生まれたからには、
出世してもおごらずに、質素倹約に努めることが大事なのに、
お構いなしにお前はぜいたくな暮らしをしている!!」
と曹宇を諫めて杖で叩いたという逸話が残っています。
若かりし頃に苦労して出世し、
それでもおごる事のなかった習温らしい逸話ですね。
受け継がれる習家と潘家の関係
習温が若かりし頃、父の仇であった潘濬が、
上でも書いたように「将来大物になる!」と言ったことがありました。
潘濬が言った通り、その後の習温は出世していくわけですが、
これは習温が荊州の大公平に任じられた時の話です。
それと似たような逸話が習温と潘濬の息子にも残っています。
潘濬には潘翥・潘祕の二人の息子がいたのですが、
これは弟の潘祕の方の逸話になります。
ある時、大公平であった習温のもとに潘祕が訪ねてきました。
そして潘祕は習温に対して、
「父は習温殿が人物評論で有名になるだろうと言っていたことがありました。
実際父の言った通り、習温殿はその通りになっています。
そこで質問なんですが、次に習温殿の後任になる方は誰だと思いますか?
教えて頂ければ・・・」と尋ねたそうです。
これに対して習温は、
「私の後任となる人物はあなた以外にいないよ」と返したわけです。
それからしばらくして習温の大公平の後任として、
潘祕が任命されたのでした。
まさに潘濬が習温を的確に評価したのと同様に、
習温もまた潘濬の息子である潘祕を的確に評価したという逸話ですね。