劉備が益州の劉璋を降し、関羽に荊州を任せていました。

 

関羽は魏への侵攻を試みますが、

呉が魏と手を結んだことで背後をせめられることになります。

 

 

関羽との関係が悪かった傅士仁が呉に寝返り、

負の連鎖によって長く劉備を支えてきた功臣の一人であった麋芳も寝返ります。

 

これによって荊州は陥落し、関羽は命を落とします。

糜芳 -曹操・劉備・孫権から評価されるも、不運が重なった劉備の恩人-

 

この時に関羽は軍事面のリーダーとして荊州を任せていましたが、

事務面を統括していたリーダーもいました。

 

 

それが今回紹介する潘濬になります。

 

ちなみに関羽は事務面のリーダーでもあった潘濬との関係も芳しくなかったようで、

荊州陥落の要因にもつながってしまったのでした。

潘濬(はんしゅん)

潘濬は荊州武陵郡の出身であり、

二十代の時に荊州の劉表の招きに応じていた儒学者に宋忠という人物がいましたが、

 

潘濬は宋忠の弟子として学んでいます。

 

 

宋忠は儒学者であるとともに、注釈者としての側面も持っており、

「五経章句」「太玄経」などの注釈者としても有名です。

 

 

 

潘濬もまた師である宋忠同様に劉表に仕え、

その際に江夏郡の従事を任されています。

 

この時、沙姜県の長による賄賂などが横行していました。

潘濬はその現状を見て沙姜県の長を法に照らして処刑したわけです。

 

この処置を聞いた江夏郡の民衆らは、潘濬の厳正な対応に感心したといいます。

 

 

その後に潘濬は、湘郷県の県令を任命されていますが、

この時も潘濬の統治体制の評判は非常に良かったそうです。

劉備に仕官

赤壁の戦いで劉備・孫権連合軍が曹操に勝利すると、

 

劉備は荊州南部を手中に収めていますが、

このあたりの頃から潘濬は劉備に仕えたものだと思われます。

 

 

このあたりの記載が少し曖昧なのは、

劉備が荊州を治めた頃に劉備に仕えたとあるので、

 

劉備が荊州を治めたのは荊州南部を手中に収めた時しかないので、

このタイミングだと推測した感じです。

 

おそらく劉表死後に劉琮・曹操に仕えず、野に降っていたのでしょう。

 

 

劉備は潘濬を高く評価して治中従事に任じ、

劉備が益州を手に入れた後は、荊州の事務全般を任せています。

 

関羽が荊州の軍事面の最高トップだったとすると、

潘濬は事務面での最高トップだと考えてもらうと分かりやすいかなと思いますね。

潘濬を活かせなかった戦犯関羽

軍事面を任された関羽と事務面を任された潘濬の関係は良好でなかったようで、

関羽が潘濬と共に荊州統治に協力することはなかったようです。

 

そうした中で関羽は魏呉の板ばさみに合う形で命を落とし、

劉備は荊州を完全に失ってしまいます。

 

 

関羽は傅士仁・麋芳ともうまくいっておらず、

その結果裏切りを招いていますし、

 

荊州の事務を任されていた潘濬ともうまくいっていなかったのですから、

荊州陥落の戦犯は、はっきり言って関羽のせいだと言わざるを得ないでしょう。

 

最低限でも潘濬との連携は必要不可欠だったはずですから・・・

それすら怠った関羽には弁解の余地はないですね。

「関羽の死」に関わった者達の三国志演義での末路

 

 

そして関羽の死を知った者達は続々と呉に帰順していくわけですけど、

 

潘濬は病気と称して、

孫権に帰順しようとはしませんでした。

 

 

孫権はそんな潘濬を大変気に入り、

大きな寝座に彼を乗せて無理やり孫権の前に連れてこさせたようです。

 

そうやって孫権の前に連れてこられた潘濬ですが、

孫権を前にしても起き上がらず、泣きじゃくっていました。

 

 

そんな潘濬に対して孫権は、

「観丁父は国を滅ぼされ、敵国の軍師に任じられた。

また彭仲爽は敵国であった楚に滅ぼされてしまったが、楚の宰相に任じられた。

 

二人はどちらも貴方と同様に荊州の出身であったが、

貴方と同じように捕虜になりながらも、抜擢されて名を後世に残することができた!

 

 

貴方が私に心を許してくれないのは、

私に観丁父・彭仲爽を許した古人のような度量がないからだろうか?

 

そうでないならば私に力を貸してほしい!!」

と言葉をかけたのでした。

 

 

その言葉を聞いた潘濬は、

起き上がって孫権に礼を述べ、孫権に仕えることを決意!!

 

 

 

そして孫権はすぐに潘濬を厚遇し、兵の指揮を任せたといいます。

 

また孫権は荊州の軍事面についてのことは、

潘濬の意見を必ず参考にしたといいます。

 

まさに関羽と全く逆の対応を孫権はしたということですね。

五谿蛮討伐で手柄をあげた潘濬

劉備が関羽の弔い合戦を起こして呉に攻め込むと、

 

武陵従事であった樊伷と元蜀臣であった習珍が手を結んで沙摩柯率いる五谿蛮を仲間に引き込み、

劉備を側面から手助けに動いたようです。

 

 

この討伐にあてられた一人が潘濬でしたが、

 

潘濬は見事に敵を蹴散らし、

手柄を立てた者には必ず褒美を与えたといいます。

 

一方で軍法を犯す者は徹底的に処分を下したといいます。

 

 

その結果樊伷は討ち取られ、

最後まで抵抗を見せていた習珍ですが、奮闘むなしく最後は討たれていますね。

劉備に最後まで忠誠を尽くして逝った習珍

 

 

ちなみに樊伷討伐の際に次のような潘濬と孫権の会話が残っています。

 

樊伷の討伐を任された際に孫権は五千の兵士か率いていなかった潘濬に対して、

「相手を舐め過ぎではないか?」と言ったことがありました。

 

これに対して潘濬は「樊伷は口先だけの人物であり、

肝も小さい男です。

 

小人の身長が小さいのは見た目から分かりますが、

樊伷もまさにそんな感じですよ」と返すと、孫権は大笑いして潘濬に任せたのでした。

 

そして潘濬は見事に樊伷を討ち取ることに成功しています。

 

 

こうやって潘濬は孫権の元で力を発揮していくわけですが、

孫権が皇帝に即位すると少府(九卿)に任じられ、その後に太常(九卿)に昇進しています。

 

そして夷陵の戦いで大功を立てた陸遜と共に、

武昌に駐屯して荊州の統治にあたっていくのでした。

孫権から絶大なる信頼を得る

潘濬は降将ではあったものの法を厳守し、孫権の期待に応え続けていきます。

 

 

孔融と交わりのあった名士である徐宗が、

部下の好き勝手な振る舞いを許していたことで、民衆に多大な迷惑をかけていることがありました。

 

その際には、徐宗を捕らえて処刑しています。

 

 

また驃騎将軍の歩隲が私兵を増やしたいと言ってきた時には、

個人が多くの私兵を持つことの危険性を進言したりもしていますね。

 

ちなみに孫権は潘濬の言葉に従って。

歩隲に私兵を新たに増やすことを許可することはありませんでした。

 

こういうことは度々あったようですが、

逆に歩隲は潘濬のことを高く評価していたといいます。

 

 

また次のようなこともありました。

 

潘濬の妻は蒋琬の妹であり、

諸葛亮が死んで蒋琬が跡を継いで蜀の中心的な立場になった時には、

 

「潘濬は蜀と通じているから気を付けた方が良いですよ」

という諫言を受けたのですが、

 

孫権はそれを信用せず、逆に諫言した者を免官にしたという話も残っています。

 

 

潘濬は人によって態度を変えたりすることはなく、

このように法にきちんと守って行動する硬骨漢だったわけです。

 

ちなみに硬骨漢とは、

権力に屈せず、自分の信念を簡単に負けないような人間のことですね。

 

しかし孫権はそんな潘濬を非常に高く評価しており、

孫権の次男であった孫慮の妻に、潘濬の娘を迎えたりもしたぐらいです。

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)

呂壱を恐れさせた潘濬の存在

孫権に気に入られて呉で強い権力を持った呂壱という人物がいるんですが、

この人物は非常に謎が多い人物でもあります。

 

それだけの権力を持ちつつも、

一般的に「呂壱事件」と呼ばれる所以外での登場がほとんどないからですね。

 

呂壱事件を簡単に説明すると、

  1. 孫権が呂壱を寵愛する
  2. 呂壱によって顧雍・朱拠などの重臣が罪に貶められて軟禁状態
  3. 呂壱に対する批判や不満が相次ぐ
  4. 孫権の寵愛がなくなる
  5. 呂壱の処刑

 

とこんな流れです。

 

潘濬と呂壱の逸話が残るのは丁度2・3にあたる部分になりますね。

 

 

丞相であった顧雍が罪に貶められていた頃、

呂壱に対して「顧雍殿が罪に問われれば、誰が跡を継ぐのでしょうか?」と尋ねた者がいました。

 

これに対して呂壱は答えることができなかったようです。

 

 

そこで「おそらく顧雍殿の跡を継げるのは潘濬殿しかいないと思いますよ」と返すと、

呂壱は「跡を継ぐのはそうかもしれませんね」と答えます。

 

 

そして呂壱の返答に対して

「ただ潘濬殿は貴方の事を気に入っていない為、

 

もし顧雍殿の跡を継いだとしたら、

明日にでも貴方につっかかってくることは間違いないでしょう」

 

と返すと、呂壱は潘濬が跡を継ぐことを大いに恐れたのでした。

 

 

その結果、軟禁状態となっていた顧雍をはじめ捕らえられていた者などは、

呂壱が取り上げていた罪もうやむやなままで解放されていくこととなります。

呂壱専横の終焉に尽力した潘濬

潘濬が呂壱の専横を嫌っていたのは、

呂壱が法を無視しており、呂壱の存在が呉を駄目にすることが分かっていたからです。

 

そこで潘濬は呂壱についての上奏を試みようとします。

 

 

しかし皇太子であった孫登ですら、

孫権の寵愛を受けていたこともあって聞き入れられていないことを知ると、

 

上奏せずに別の方法を画策します。

どういう方法かと言うと皆を集めて、そこで呂壱を殺害しようとしたのです。

 

 

しかしどこからか殺害計画を聞いた呂壱は、

病気を理由に参加することはなく、潘濬の計画は失敗してしまったわけです。

 

 

それでも潘濬は何度も何度も孫権に対して呂壱の横暴さを進言する中で身を結び、

次第に呂壱は孫権からの寵愛も失せていきます。

 

そして最終的には処刑されるわけですね。

 

 

正確に言うと、歩隲から孫権へと上奏文が送られ、

 

「陸遜・顧雍・潘濬の三人は信用が置けるから重用するように!!」

といった内容を見て決め手となって感じですかね。

 

 

余談ですが呂壱が捕らえられた際には、

呂壱を恨む者達から有無を言わさず処刑の声があがっていましたが、

 

かつて濡れ衣を着せられた顧雍は、きちんと法に従って呂壱の罪を裁いたといいます。

 

 

そして孫権は呂壱を用いた事を謝罪し、

潘濬のようにきちんと自分を諫めなかった周りの者達も非難したという話も残っています。

 

呉に降ってからも自分の信念を曲げずに呉の重臣として使えるまでになった潘濬でしたが、

239年に生涯を閉じています。

「三国志」と「季漢輔臣賛」の評価の矛盾

三国志を著した陳寿は、

「私利を求めず、国家の為に尽くし、

国の為に最高の仕事を成し遂げた人物だった」と非常に高い評価を与えています。

 

これほどまでに高い評価を与えられているというのは、

それだけ潘濬が優れた人物であったのは間違いないでしょう。

 

 

ただ241年に蜀に仕えた楊戯によって書かれた「季漢輔臣賛」では、

陳寿とは全く逆の評価をされています。

 

蜀を裏切って関羽の死に繋がった傅士仁・麋芳と並べて、

蜀呉の笑い者になったといったふうに書かれています。

 

傅士仁や麋芳に関してはその表現も正しいかもしれませんが、

明らかに潘濬の場合は・・・

 

 

ちなみに蜀に仕えた者達の事が記載されている「季漢輔臣賛」は、

蜀の人物を知る中で最大級の情報源になっている著書であるのは間違いないものです。

 

しかし裏切り者である三人を褒め称えるような記載ができなかったという事情も実際はあったからこそ、

そういった記載になってしまったのでしょうね。