傅士仁・麋芳の裏切りもあって、

魏呉に挟み撃ちに合う形で捕らえられて処刑された関羽・関平親子!

 

そんな荊州での戦いの中で、

最後の最後まで劉備に忠誠を尽くした死んでいった人物をここでは紹介します。

 

 

おそらくこの人物を知ってる人は少ないかもしれませんが、

関羽・張飛にも引けを取らない忠義の士であったことは間違いありません。

習珍(しゅうちん)

習珍は荊州襄陽郡の出身で、

若かりし頃から弟の習宏しゅうこうと共に劉備に仕えていました。

 

 

劉備に仕えた正式な時期は不明ですが、

 

出身地から推測する限り、

劉備が荊州の劉表を頼って落ち延びてきた辺りにつかえたのではないかと思います。

 

 

劉備が孫権と同盟を結んで曹操を破ると、

劉備は荊州南部を攻撃して荊州南部の奪取に成功したわけですが、

 

この時に習珍は零陵北部都尉・裨将軍に任じられています。

荊州争奪戦&関羽の死

関羽が襄陽・樊城方面へ侵攻を開始するものの、

魏呉が手を結んだことで、留守にしていた荊州後方が呉に襲われてしまいます。

 

この時に傅士仁・麋芳らが裏切ったことで荊州は陥落!

 

関羽は古城であった麦城に立て籠もって抗戦するものの、

呉の包囲網から脱出できず捕らえられ、息子の関平と共に処刑されてしまったのでした。

「関羽の死」に関わった者達の三国志演義での末路

 

 

関羽の死を知った荊州各地を守る者達も続々と孫権に降るのですが、

劉備から荊州の事務を一任されていた潘濬はんじゅんも孫権に降ることを潔しとしませんでした。

 

それでも最終的には孫権に降っているんですが・・・

 

 

また廖化に関しては、劉備の元に戻りたいが為に偽の降伏をして、

どさくさに紛れて劉備の元へと逃亡したりもしていますね。

 

 

 

そんな中で習珍は任された城を頑なに守り、

呉に降ることはなく、徹底抗戦を繰り広げます。

 

 

しかし孤軍奮闘にも限界があったのも事実であり、そんな折に弟である習宏が、

 

「今徹底抗戦を貫いても近いうちに限界が来るのは明らかである。

今は偽って呉に降り、後に呼応した方が劉備様の為にもなる!!」と進言したわけです。

 

 

習珍は習宏の言葉が「もっともなことだ!」と納得し、

呉に一時的に降伏することを決意!

 

そして習宏は劉備の為になるタイミングを待ったわけです。

まぁ一言でいうと「埋伏の毒」みたいなものですね。

樊伷と手を結んで劉備に呼応する

習珍は武陵郡の武陵従事を務めていた樊伷はんちゅうと手を結びます。

 

習珍が樊伷と手を結んだ理由は、

異民族を武陵郡に引き入れて劉備に味方しようとしていたことを知ったからです。

 

 

しかしこの反乱は事前に情報が漏れてしまったことで、

樊伷は呉に降った潘濬によって討ち取られてしまったわけです。

 

一方の習珍は七県を占拠して邵陵太守を自称して、

とことん劉備に味方したわけですね。

 

 

 

後は劉備に味方していた時期ですが、

夷陵の戦いが起きた221年の可能性が非常に高いと思われます。

 

このあたりは残されている情報が線になっていない為に、

点と点を繋げることで推測ができます。

 

 

劉備が秭帰に進出すると、

武陵の諸県や蛮民が劉備に呼応したという記録があります。

 

そして陸遜・潘濬らに鎮圧させたとまであります。

 

この時に潘濬は五千人の兵を率いた際の孫権との逸話も残っているので、

おそらく間違いないのではないでしょう。

 

 

そもそも劉備の為になるタイミングを待つために、

習珍は呉に降っているわけですから・・・

劉備に忠義を尽くし続けた習珍

習珍討伐を任されたのは潘濬でしたが、

各地域の反乱は見事なまでに平定されていくこととなります。

 

習珍はそれでもあきらめることはなく、

数百人を率いて山に籠って抵抗を続けたのでした。

 

 

ここで潘濬は習珍に降るように何度も手紙を送りますが、

習珍は潘濬へ返答の手紙を送ることはありませんでした。

 

 

それでも潘濬は習珍が殺すには惜しすぎる人物だと判断し、

数名だけを引き連れて習珍の籠る山の傍まで近づいて呼びかけたのです。

 

「きちんと習珍殿と話し合いたい」と・・・

 

 

この呼びかけに対して習珍は、

「私は蜀漢の鬼となろうとも、呉に降ることなどありえない!

もう二度と私の元に降伏の話は持ってくるな!!」と言い、弓矢を潘濬に放ったのでした。

孫権に轡替えした事で、十二分な力を発揮できた潘濬

習珍の最後

潘濬は習珍が呉に降ることはもうないと判断し、

習珍が籠る山を仕方なく攻撃を開始することとなります。

 

圧倒的に兵力が劣る習珍でしたが、

1カ月以上に渡って抵抗を続けたわけです。

 

 

長く抵抗を続けてきた習珍でしたが、

抵抗を続けるうちに食べ物も底をつき、弓矢も使い果たしてしまいます。

 

習珍は「もうここまでだ・・・」と判断し、

手元にあった剣で自らの首を刎ねて自害して果てたのでした。

 

 

 

この時に最後まで習珍と共に戦ってくれた部下には、

 

「私は蜀漢から厚恩を受けたからには死んで報いるしかない!

しかしお前達まで共にすることはない!!」という部下を想いやった言葉を言い残して・・・

 

その後、習珍の部下が降伏したのか四散したのか、

それとも習珍の後を追って死んだのかは定かではありません。

 

 

後に習珍の死を知った劉備は大変悲しみ、

習珍の為に喪を服して昭陵太守の官を追贈したといいます。

 

習珍が自称した昭陵太守を劉備は正式に贈ってあげたわけですね。

 

 

最後に余談ですが、正史の注にある「襄陽記」には、

昭陵ではなく邵陵と書かれおり、

 

これは司馬昭の名である「昭」を避けたからだと言われていますね。

習珍の弟である習宏、習珍の子である習温のその後

習珍は最後の最後まで劉備に忠誠を尽くして自害したわけですが、

習珍の弟である習宏、習珍の子である習温に関しては呉に仕えたようです。

 

習珍は張昭によって推挙されたという話もあったりしますが、

どういった経緯で呉に仕えることになったのかについての詳細は分かりません。

 

おそらく習珍が偽降伏した後から呉に仕えたままだったのでしょう。

 

 

また習珍の子である習温は、

父の仇でもあった潘濬によって保護されています。

 

そんな二人の間には次のような逸話も残っています。

 

「習温は名士であり、

いずれ荊州を代表する人物になるであろう」と・・・

 

そして習温は父の仇であるはずの潘濬に対して恨みを抱くわけではなく、

家族ぐるみの付き合いをしていったといいます。

 

 

そして習温は潘濬の手助けもあってか、はたまた単純に優秀であったかは不明ですが、

見識が広く、度量も深い人物だったようで、

 

長沙太守・武昌太守・選曹尚書・広州刺史を歴任しており、

三十年を超えて宮仕えをしたようです。

 

高官を歴任しても習温はおごることなかったようで、

晋の時代になってからはのんびりと余生を送ったといいます。

父の仇である潘濬によって高く評価された習温