典韋(てんい)

典韋は兗州陳留郡己吾県の出身で、生年や字は今に伝わっていません。

若い頃から人並外れた怪力の持ち主として知られ、勇敢で義理堅い人物でした。

 

「魏志」典韋伝によると、友人の仇であった李永を討つため、自ら復讐を決意しています。

李永は県長(県令)を務める人物で、多くの護衛に守られていました。

 

しかし典韋は短剣を懐に忍ばせて来客を装い、

警戒を巧みに潜り抜けると、一瞬のうちに李永夫妻を斬り伏せました。

 

その後、多数の役人や追手が典韋を捕えようとしましたが、

典韋は長戟を振るってこれを退け、そのまま包囲を突破して逃走したと伝えられています。

この壮挙によって典韋の名は広く知られるようになり、「勇力無双の豪傑」として各地で評判になりました。

張邈軍から曹操軍へ

反董卓連合が結成されると、典韋は陳留太守・張邈の軍に加わります。

当時は司馬であった趙寵の配下として従軍していました。

 

この頃、誰一人持ち上げることのできなかった巨大な軍旗を、

典韋が軽々と持ち上げたため、その怪力に趙寵は大いに驚いたと伝えられています。

その後、典韋は曹操軍へ加わり、夏侯惇の配下となりました。

 

正史には、張邈軍から曹操軍へ移った詳しい経緯は記されていません。

おそらく曹操が兗州牧となって勢力を拡大していた頃に配属されたものと考えられていますが、

これは後世の推測であり、史料による確証はありません。

 

やがて典韋は武勇を認められ、司馬に任じられました。

 

 

典韋の性格は忠誠心が厚く、慎重で実直でした。

昼は終日曹操の側に立って護衛し、夜も帳幕の左右で宿衛にあたり、私邸へ戻って休むことはほとんどなかったといいます。

 

一方で大食漢としても知られ、酒食を好み、その飲食量は常人の倍にも及びました。

曹操の前で食事を賜る際には、大いに酒を飲み、長くすすり続けたため、側近たちが何人も交代で給仕したほどでした。

曹操はその豪放な食べぶりを見て、典韋の壮健さに感嘆したと伝えられています。

 

武器は特に巨大な双戟を愛用し、長刀などの重武器も自在に扱いました。軍中ではその怪力を称えて、

「帳下に壮士あり、典君という。一双の戟、八十斤を提ぐ」

(帳幕の下には壮士典韋あり、八十斤もの双戟を軽々と携える)。

と語られていたといいます。

呂布との激戦で名声を高める

曹操と呂布が兗州を争った戦いでは、典韋は数々の武功を挙げています。

 

正史には、呂布軍との激戦で曹操軍が苦戦した際、

曹操が精鋭部隊を募り、その指揮を典韋に任せたことが記されています。

典韋は数十人の勇士を率いて敵陣へ突撃しました。

 

兵士たちは鎧を二枚重ねに着込み、盾を持たず長戟だけを手にして突進したといいます。

敵の矢が雨のように降り注ぐ中でも典韋はひるまず前進し、呂布軍を押し返しました。

 

この功績によって典韋は都尉に昇進し、曹操から絶大な信頼を得るようになります。

以後、典韋は常に曹操の側近として仕え、護衛を任される存在となりました。

~十歩になれば知らせよ~

呂布軍との戦いでは、

典韋の豪胆さを示す逸話も「魏志」典韋伝に収録されています。

 

激戦の最中、返り血や自らの流血によって視界を失った典韋は、近くの兵士に向かって

「敵が十歩まで近づいたら知らせよ。」と命じました。

 

兵士が「十歩です」と告げると、

「五歩になったらもう一度知らせよ。」と言います。

そして敵が五歩まで迫った瞬間、典韋は十数本の戟を次々と投げ放ち、一投ごとに敵兵を倒しました。

 

その猛烈な戦いぶりに呂布軍は大いに恐れ、曹操軍は戦線を立て直すことができたと伝えられています。

宛城で迎えた壮絶な最期

建安2年(197年)、曹操は張繍を討伐し、張繍は一度降伏しました。

 

宴席では典韋が大斧を携えて曹操の傍らに立ち、鋭い眼光で張繍らを見据えていたため、

張繍の一党は誰一人顔を上げることができなかったといいます。

 

しかしその後、賈詡の献策を受けた張繍は突如として反乱を起こしました。

 

 

奇襲を受けた曹操軍は大混乱に陥ります。

典韋は曹操の脱出を助けるため、わずかな兵とともに門を守り続けました。

敵兵は何度も突撃しましたが、典韋は長戟を振るうたびに敵兵を薙ぎ倒し、誰一人門を突破することはできませんでした。

 

さらに敵兵を素手でつかみ上げて殴り倒し、二人を同時に抱え上げて絶命させたとも伝えられています。

全身に数十か所もの傷を負いながらも最後まで退くことはなく、曹操が安全圏まで脱出する時間を稼ぎ続けました。

 

そして典韋は壮絶なまでの戦死を遂げたわけですが、その勇姿は敵軍までも畏怖させ、典韋が倒れた後でさえ、

しばらく誰もその亡骸に近づこうとしなかったと記録に残されています。

死後も称えられた忠臣

典韋は生前の官位こそ決して高くありませんでした。

 

しかし正始4年(243年)、

曹芳の時代になると、曹操の廟庭に祀られる二十人の功臣の一人に選ばれています。

これは曹操政権に大きく貢献した人物だけに与えられた極めて高い名誉でした。

 

その武勇だけでなく、主君のため命を惜しまなかった忠義が、

後世まで高く評価されたことを物語っています。

・曹操廟に祀られた二十六人の功臣

-青龍元年(233年) 曹叡の治世《合計三名》-
夏侯惇・曹仁・程昱

 

-正始四年(243年) 曹芳の治世《合計二十名》-
曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆
・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧覇・李典・龐徳・典韋

 

-正始五年(244年) 曹芳の治世《合計一名》-
荀攸

 

-嘉平三年(251年) 曹芳の治世《合計一名》-
司馬懿

 

-景元三年(262年) 曹奐の治世《合計一名》-
郭嘉

 

『三国志』の著者である陳寿は、典韋について次のように評しています。

「典韋と許褚は、ともに虎のような勇猛さを備えた将であり、その武勇は漢の名将・樊噲に比肩する。」

この評価は、典韋が単なる豪傑ではなく、歴史に名を残す屈指の猛将であったことを示しています。

『三国志演義』での典韋

「魏志」典韋伝には数十か所の傷を負いながら最後まで曹操を守り抜き、

敵兵が死後もしばらく近づけなかったという描写が残されており、十分に壮絶な最期であったことがうかがえますが、

 

小説『三国志演義』での宛城での最期は、さらに劇的に脚色され、全身に無数の矢を受けながらなお敵を寄せ付けず、

立ったまま絶命したという「弁慶の立往生」を思わせる壮絶な場面となっています。

 

このように演義では、典韋の武勇がより誇張され、呂布軍との戦いや宛城での奮戦も英雄譚として描かれています。