曹操から認められた神童で、真っ先に思い浮かぶ人物は、
間違いなく曹操と環夫人との間に生まれた曹沖でしょう。
曹操によって才能を愛された曹沖が、後継者候補No1であったのは有名な話です。
後に曹操の後を継いだ曹丕ですが、
「もしも兄の曹昂が生きていたとしても跡を継げなかったかもしれないが、
曹沖が生きていれば跡を継ぐことは間違いなくなかっただろう」とまで言わせていますから・・・
そんな曹沖の逸話として
象の重さをはかるというのは逸話としては有名ですね。
そんな曹沖と同等に曹操が将来を待望した人物に、
周不疑という者がいました。
今回はそんな周不疑の生涯について見ていきたいと思います。
神童、周不疑
周不疑は幼い頃から聡明で、
神童と呼ばれるほどの高い才能を持っていました。
周不疑は、劉表(後に曹操)に仕えた劉先の妹の子で、
劉先の甥にあたる人物で、
あまりに周不疑が優秀であったことから、
劉先は劉巴の元に弟子入りさせようとしたことがあったといいます。
ちなみに劉巴は後に益州入りした劉備に仕え、
蜀の経済を立て直した人物ですが、
あまりの功績の大きさから劉備も諸葛亮も頭があがらなかったというほどの人物になります。
ただその劉巴をもってしても、
「鳳凰を燕や雀がいる庭で遊ばせて、
高い才能を潰してはいけない・・・」
と言って辞退した逸話が残ってますね。
周不疑の父親が劉先同様に劉表に仕えていたのか、
それとも曹操に仕えていたのかなどについては分かりませんが、
周不疑という神童がいることを曹操が知ると、
一度会ってみたいと思った曹操によって周不疑は呼び出されています。
曹操は周不疑の才能の高さに一目ぼれし、
自分の娘を嫁がせ、若くして議郎に採り立てようとします。
しかし周不疑はその誘いをどちらも断っています。
周不疑は天才であったがゆえに、
曹操に気に入られる事の長所と短所が見えていたのかもしれませんね。
白狼山の戦いで従軍し、曹操軍を勝利に導く
若くして曹操に仕えることになった周不疑ですが、
袁煕や袁尚と手を組んだ鳥丸族討伐に乗り出した際に従軍しています。
そしてこの207年の白狼山の戦いで、
曹操軍は柳城を落とせずに苦戦を強いられたのですが、
この時に曹操に策を授けたのが周不疑でした。
周不疑は、柳城を落とす為に十の計略を進言したといいます。
曹操は周不疑の十の計略の中から一つ用いて柳城を攻めると、
瞬く間に攻略することに成功!!
白狼山の戦いは実質袁家が滅亡しただけでなく、
鳥丸族が衰退していくこととなった戦いでもあったわけですが、
その裏側には周不疑の姿があったのです。
曹沖を支えてくれる逸材
曹操は後継者候補と考えていた曹沖を支えてくれる人物として、
周不疑に期待を寄せるようになっていきます。
曹操は曹沖の才能を溺愛していましたが、
曹沖と同じものを周不疑にも感じた曹操は、
二人の年齢も近いことからも、
周不疑が曹沖の心の支えの役割も担ってくれるようになると想像したのかもしれませんね。
そんな大きな期待を寄せられていった周不疑ですが、
その歯車は大きく狂っていくこととなります。
曹沖の死&周不疑の最後
208年に、曹操にとって、予期せぬ不幸が起きてしまいます。
何が起きたのかというと曹操自身が溺愛していた曹沖が、
病でこの世を去ってしまったのでした。
この時曹沖を治せる可能性があった華佗を曹操は処刑してしまっており、
曹操は華佗を処刑したことを心の底から後悔したといいます。
もちろん後の祭りなわけですが・・・
曹沖が亡くなったことで、
周不疑の存在に危機感を抱くようになった曹操は、
周不疑を殺害してしまいます。
この時の周不疑の年齢は、僅か17歳という若さでした。
曹操が周不疑殺害を企てた際に、
曹丕が反対したと言いますが、曹操は聞く耳を持たず・・・
曹沖だからこそ周不疑を扱えると曹操は思っており、
曹沖が亡くなった今、曹丕では周不疑を扱うことはできないと判断しての行動だったのでしょう。
優しい心の持ち主で、機転の利いた曹沖が曹操の後を継ぎ、
周不疑が側近として曹沖を支えていたなら、
司馬氏の台頭を許さず、曹一族による魏の政権を確固たるものとできた未来も・・・
歴史にもしもなんてないですが、
そんな歴史がもしあったのなら面白かったでしょうね。