三国志演義で馬超・韓遂連合軍の奇襲に苦しめられていた曹操に対して、

 

「氷城の計」を授けた夢梅老人(夢梅居士)

という名前を記憶してる人も多いのではないでしょうか?

 

実際これは三国志演義上だけでの戦略と考えている人も多いかもしれませんが、

これは正史にもきちんと残っている話になります。

 

 

ただ夢梅老人ではなく、婁圭ろうけいという名前が正式名称ですね。

つまり夢梅老人の元ネタになった人物なのです。

婁圭(ろうけい)の話が書かれた「蔡琰伝」

婁圭についての話は、

「魏志」の12巻「崔毛徐何邢司馬伝」にある、

蔡琰伝に多くの記録が残っている人物になりますね。

 

もう少し正確に言うと、

以下のようなものから寄せ集められているといったのが正直な所です。

 

 

ちなみに「崔毛徐何邢司馬伝」は、

7人の名前を繋ぎ合わせた伝になりますね。

  • 崔琰
  • 毛玠
  • 徐奕
  • 何夔
  • 邢顒
  • 鮑勛
  • 司馬芝

 

 

これは「関張馬黄趙伝」を例にとると分かりやすいですが、

似たような人物をまとめた伝ということになりますね。

 

「蜀志」の36巻にある「関張馬黄趙伝」は、

関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲から取った名前で、

 

五虎将軍の元ネタになった「伝」でもあるので馴染み深いかなと思います。

婁圭なる人物

婁圭は三国志演義に登場する夢梅老人とは、

真逆のような人物に近いです。

 

 

どのように真逆かというと、

「名声・金銀財宝などには全く興味ない」

といった仙人的な立場の人物で描写される三国志演義なわけですが、

 

「蔡琰伝」に記録が残る婁圭は、

「男に生まれたからには、

数万の軍勢・騎馬千頭をを率いて後世に名を残したいものだ!」

と常々言っていたようです。

 

 

この話を聞いていた周り者達は、

婁圭を物笑いの種としていたのでした。

 

「お前にそんな活躍ができるわけないだろう!」

みたいな感じだったのでしょうね。

 

 

ただ大きな事を言う者達は、

婁圭だけに関わらずに大体笑われていることが多いです。

 

何故なら自分の身の丈にあっていない夢物語ともいえる事を語るからです。

だから人は笑うんですよね(笑)

 

 

ただ本当に言葉に行動が追い付いてきた時には、

人は自然と笑わなくなっているもので、

 

婁圭のその後はどういう人生を歩んでいったのかを見ていきたいと思います。

 

 

 

ただこのように周りから馬鹿にされていた婁圭ですが、

どういう経緯でかは完全不明ですが、曹操とは旧知の関係だったようです。

 

 

そして何かと裏目に出る事が多かった婁圭は、

亡命者を匿った際にそのことがばれて処刑されそうになりますが、

 

「こんな所で死んでたまるか!」

と婁圭は見事に脱獄!!!

 

 

 

それからしばらくして婁圭の名が出てくるのは、

黄巾賊残党による反乱が相次いでいたような時期になります。

 

 

漢王朝の権威は地に落ちており、

多くの群雄が各地に割拠してきた時代でしたが、

 

婁圭もまた荊州の北境あたりで、

群雄の一人として割拠することに成功してます。

 

 

この時に婁圭は近場の劉表と手を結んでいますし、

張繍の叔父であった張済を討ち取ったりもしてます。

 

まぁ張済が討ち取られた原因は、

略奪行為を行ったのが原因なんですけどね・・・

 

ちなみい張済が穣県を攻撃した時に討ち取られている感じです。

婁圭VS王忠

ただこの時期は董卓の暴政が行われたり、董卓が殺害されたりと、

天下は乱れに乱れていった時代でもありました。

 

董卓は長安へ強制遷都などをやっていたので、当時の都は長安でしたしね。

 

 

呂布によって董卓が討たれたかと思うと、

董卓軍残党であった李傕・郭汜に逆に長安を奪われたりと・・・

 

 

婁圭は長安近辺から避難してきた人達を、

多く迎え入れて助けています。

 

 

しかし逃げてきた人物の中に王忠がいたのですが、

王忠は婁圭に世話になることを激しく嫌って、

 

逆に少数ではあったけれども仲間を集めて婁圭を攻撃してきたのでした。

 

 

ただ婁圭は王忠にあっさりと敗れて、

兵士を全て奪われたみたいで・・・

 

つまりこれがどういう事を意味するのかというと、

大軍を率いて歴史に名を残すという夢があっさりと瓦解したということですね。

 

 

 

ちなみに婁圭を打ち破った王忠ですが、

吸収した兵を引き連れて曹操にサクッと降っています。

 

また婁圭自身もどうすることもできず、

旧知の関係を頼りに曹操に降っていくことに・・・

 

 

実際には、張済を討ち取っていることで、

一族であった張繍の報復を恐れたからだとも言われたりしていますね。

 

味方であったはずの劉表は張繍に肩入れしたようですから・・・

曹操に高く評価された婁圭

曹操に仕えることになった婁圭ですが、

 

曹操によって高い評価を受けたようで、

大将を任されることになります。

 

実際に軍勢を任せることはなかったようですが・・・

 

 

ただ曹操は婁圭を常に側に置き、

国家運営に関わる軍議に数多く出席させていたようです。

 

まぁそれだけでも、

婁圭が優れた人物であったことが分かる逸話となっていますね。

 

 

曹操としては婁圭の才能こそ認めていたものの、

兵を預けるまでは信頼できていなかったのかもしれません。

 

曹操の元に来た経緯も、

成り行きが成り行きなようなものですから・・・

 

 

「人を使うのならば、

その者を疑ってはいけない!

 

逆に人を疑うなら、

その者を最初から用いてはならない!!」

という曹操の名言が残ってたりもしますからね。

曹操(孟徳) -中華統一以上のモノを未来へ残した超人-

劉琮降伏の際の優れた助言

曹操が荊州への侵攻を開始した際に、

劉表の跡を継いだ劉琮は戦わずして降伏を申し込んできます。

 

多くの臣下達は、

「劉琮の偽降伏に過ぎないのでご注意を!」

と劉琮の降伏を疑ったのでした。

 

 

そんな臣下達とは真逆の意見を言ったのが婁圭でした。

「今の世の中、野心がある者達は、

必ずといっていいほど自分を大きく見せようとしてきます。

 

そんな中で節義を持って降伏の使者を送っててるのですから、

劉琮の降伏は本当でしょう!」

 

 

婁圭の言葉を聞いた曹操は、

「もっともなことだ!!」と納得して荊州へ進出するわけですが、

 

結果は婁圭の言った通り、

劉琮が降伏したことで荊州を手中に収めたのでした。

 

 

 

曹操は婁圭を高く評価していたこともあり、

何か手柄を得るたびに特別ボーナスみたいなものを与えていたようで、

 

婁圭の家には千金ほどの大金が溜まったそうです。

 

 

そんな婁圭に対して曹操は、

「婁圭は私よりもお金を持っていて裕福な暮らしをしている!

婁圭が私に及ばないのは権勢だけだ!!」と語った話もあったりします。

氷城の計

馬超・韓遂連合軍の討伐に乗り出した際に、

渭水周辺には砂を多く含んだ土が多かった事もあって、

 

敵の攻撃から防ぐ為の砦や防壁を作ることができず、

馬超らからの攻撃に悩まされていました。

 

 

つまりここで婁圭の「氷城の計」が生まれるわけです!

 

婁圭は曹操に対して、

「今は非常に寒い時期ですので砂城を築き、

そこに水をかけておけば、一夜にして城塞が完成しますぞ!」

と進言すると、曹操は直ちに実行に移します。

 

 

婁圭の言った通りに氷の城塞が完成したことで、

馬超による攻撃に悩まされることがなくなっただけでなく、

 

これがきっかけとなって馬超・韓遂連合軍を打ち破ることに成功したのでした。

 

 

ちなみに曹操は、婁圭の才能に改めて感服し、

 

「私の計略には私でさえも及ばぬ!」

とまで大絶賛しています。

氷城の計

氷城の計は嘘八百である!?

ただ婁圭の見事な氷城の計ですが、

実際には作り話だったという説もあったりします。

 

正史に記載が残るからと言って、

実際全て正しいかは疑わしい記載があるのも事実なわけで、

婁圭の氷城の計もその一つになっています。

 

 

馬超・韓遂連合軍と対峙した時は、

閏8月とあるので、

 

「寒いわけがない、でたらめな記述だ!!」

と三国志に注釈を加えた裴松之も言ってたりしますね。

 

 

確かに閏8月ならば、今でいう所の9月みたいな感じですので、

確かに寒い季節というのは疑わしい可能性はありますが、

 

比較的北方である点と9月である点を考えると、

100%嘘であるということまでは言えないかなというのが私の結論になります。

 

 

当時は比較的寒かった時期が長かったかもしれませんしね。

 

 

ちなみに暦が実際の季節とずれるのを防ぐために、

挿入される月のことを閏月というのですが、

 

なので閏月が用いられる年は1月・2月・3月・・・

・・・8月・閏8月・9月・10月みたいな感じになるわけですね。

 

だから閏8月は、今でいう所の大体9月になるのです。

婁圭の最後(Part1)

曹操が息子達と遊びに出掛ける時にも、婁圭は付き従う事が多かったのですが、

この事件が起きた時も婁圭は曹操に付き従っていました。

 

 

この日も婁圭が習授と共に付き従うことになっていたのですが、

 

一緒にでかけようとしている曹操親子を見た習授は、

「親子で今日という日を楽しんでいるのは、

なんと素敵な事ではないか!」と口ずさんだといいます。

 

 

これを聞いた婁圭は、「今は乱世なのだから、

そのように思っているだけでなく、

 

実際に行動に移せれば、

誰でもあの立場になることは可能なのだ!」

と言ったことがありました。

 

 

これを聞いた習授は曹操にその事を告げたのですが、

 

婁圭の言葉をスルーすることは危険だと考え、

婁圭を処刑してしまいます。

 

 

曹操の参謀として長らく活躍した婁圭ですが、

おそらく婁圭は自分が歩んできた人生に悔いが残っていたのでしょう。

 

若かりし頃から大軍を率いて歴史に名を残す事を夢見てきたのに、

曹操の参謀として活躍している自分に対して・・・

 

それがふと気が緩んだ時に、

「言葉として出てしまったのではないか?」と思うわけです。

婁圭の最後(Part2)

ちなみに上で述べた婁圭の最後は、

韋昭の「呉書」に記載されている内容を元にしたものですが、

 

蔡琰伝には違った記述がみられるので紹介しておきます。

 

 

ここでは外出しようとしていた曹操親子を見て、

 

「彼ら曹操親子は今日のような楽しみを、

これまでに味わった事などあったのだろうか?」

と婁圭が口に出したことがありました。

 

 

その事を曹操に告げ口したものがいたようで、

 

それを聞いた曹操は自分への誹謗中傷と考えたようで、

婁圭を処刑してしまったという内容になっています。

 

 

ただこれだと曹操が処刑した理由としてはかなり弱い気がしますし、

 

婁圭の若かりし頃の夢の事を考えるのならば、

韋昭の「呉書」の記載の方が私はしっくりくると思っています。