蜀で有名な占い師(予言者)には、
李意其・趙直・周羣といった優れた人物がいたりしますが、
そんな人物と肩を並べる評価を受けていた人物、
張裕について見ていきます。
張裕&鄧芝との逸話
益州蜀郡出身の張裕は、
「図讖の術(占い)」の才能に秀でており、
同業者の周羣(占い師)よりも才能は豊かだったと言われています。
そんな張裕ですが、鄧芝との逸話があったりします。
それは鄧芝が益州へと流れてきた際に、
張裕の噂を聞きつけて訪ねてきたことがあったわけです。
まだ完全に無名であった鄧芝ですが、
「七十歳を過ぎて大将軍となり、侯に封じられるでしょう!」
と鄧芝を大器晩成型の人物として高評価!!
後に鄧芝は「東の鄧芝・南の馬忠・北の王平」と呼ばれるまでになり、
243年には車騎将軍となり、仮節を与えられたのでした。
三国志では仮節というのがたまに出てきたりするんですが、
「皇帝から直接権限を与えられた将軍」といったような意味合いがありますね。
もっと簡単に言ってしまうと、
「将軍の中でも上級ですよ」みたいな意味合いです。
この時に鄧芝が何歳だったのかは正確には不明ですけど、
70歳前後だったことだけは間違いないと思います。
それは鄧芝と王平の逸話から分かります。
247年に宗預が屯騎校尉となり、
初めて軍事に関わることになるのですが、
この時に宗預を茶化してきたのが鄧芝だったのです。
そこで鄧芝に反論したのが次の言葉でした。
「70歳超えても兵権を返さないものもいますよね」と・・・
劉備との因縁
劉備が劉璋に呼ばれて益州に入った際に、
劉璋は歓迎ムードで劉備を迎えます。
この時に劉璋の従者の一人だったのが張裕ですが、
劉備は張裕を見てからかいます。
からかった理由は、
張裕の豊満な髭に対してですね。
馬鹿にされた張裕は、逆に髭が薄かった劉備に対して、
「潞涿君」といって馬鹿にしたのでした。
しかしこの発言が後に張裕の命運を決めてしまう事になろうとは、
この時の張裕は知るはずもなかったのです。
いやもしかしたら知っていたかも・・・
怒りの蓄積(張裕のやらかし)
劉璋が劉備に降ると、
張裕もまた劉備に仕えることとなります。
そんな中で張裕は、
「庚子の年に王朝は代わり、
劉氏の帝位は終わってしまうでしょう。
また劉備様が益州を手に入れてから9・10年後には、
天命も尽きるかと・・・」
という占いを密かにしていました。
「庚子の年」とは220年のことで、
漢王朝が滅亡し、曹丕によって魏王朝が誕生した年です。
またそれだけではなく劉備の命運まで占っている内容でした。
とりま劉備が益州を手に入れたのは214年ですので、
その9・10年後といえば223・224年ということになります。
つまり224年までには
「劉備が死ぬ」という予言までしていたわけで・・・
つまり張裕は漢王朝が滅亡する時期と、
劉備の死亡時期を完璧に当てていたわけですが、
この占いを聞いていた者は内容が内容なだけに見過ごすことはできず、
劉備に知らせてしまいます。
これを聞いた劉備は、大きな怒りを覚えたわけです。
それが「潞涿君」と馬鹿にされたことも合わさって尚更に・・・
漢中攻略戦での占い
漢中攻略に乗り出した劉備ですが、
周羣の言う通りの結果で幕を下ろしました。
しかし周羣の占いが当たる中で、
全力で占いを外した人物がいたのですが、
それが張裕だったのです。
「漢中攻略に乗り出すと、
必ず負けますよ」と・・・
結果は張裕の占いに反して、劉備の勝利に終わります。
これによって劉備の積もりに積もった怒りが爆発し、
漢中攻略戦をきっかけにする形で張裕を処刑してしまうのでした。
一応諸葛亮は助命嘆願はしたんですけど、
劉備の耳に届くことはなく・・・
実は処刑される未来が分かっていた張裕
張裕は最終的に劉備によって処刑されることになったのですが、
実は自分が処刑される未来が見えていたようです。
張裕は人相占いも得意としいて、
自分自身を鏡で見るたびに、
鏡を地面に叩きつけて割っていたといいます。
だからこそ張裕は処刑されるに至っても、
素直に受け入れたのでしょう。
何故ならそれが自分の定められた運命だと分かっていたから・・・
ただ私の思う所として、
もし本当に自分の未来が見えていたのなら、
それを変えるように上手に立ち回ることもできたのではないかと思うわけです。
わざわざ劉備を挑発したり、怒らすこともないでしょうし、
相手への伝え方(言い回し)ももっと良い方法があったと思いますし・・・
そういう意味では、張裕と同世代に活躍した周羣と比べても、
立ち回りが下手だったと言わざるを得ませんね。