「世説新語」は、

三国時代より更に後の時代にあたる南朝(宋王朝)時代に、

劉義慶によって編纂されたものになります。

 

 

ここには後漢末期の人物から、

東晋までの人物についての逸話が集められたものになります。

 

ちなみに東晋の後にできたのが宋王朝になりますね。

 

この時代には他にも、

「後漢書」が編纂された時代でもあったりします。

 

 

倭奴国王が金印を受け取ったなど、

当時の日本(倭)について書かれている「後漢書東夷伝」と言えば、

 

少しは馴染み深いものかもしれませんね。

 

この世説新語には曹操をはじめ、

多くの人物についての逸話があったりするわけですが、

 

ここでは曹操の養子になった何晏についての逸話を、

六つほどまとめて紹介してみたいと思います。

蒼天航路(30巻32 P)より画像引用

曹操殿の養子にはなりたくないでござる

宮中の混乱によって殺害された何進ですが、

何進の息子であった何咸かかんが亡くなると、その嫁(尹氏)は曹操に見初められます。

 

曹操の未亡人好きがここでも・・・

 

 

この時に尹氏の連れ子であったのが何晏なんですが、

曹操は何晏が優秀であることを知ります。

※何晏の父親が何咸でない説も存在しますので一応の補足!

 

まぁ尹氏が曹操の側室になった時点で、

当たり前のように何晏は養子になるわけですが、

 

養子にしたい曹操と養子になりたくない何晏の話が、

世説新語には載っていたりします。

 

 

 

どういう内容かというと、

「曹操が何晏を養子にしたいと考えている」

という話を耳にした何晏(当時七歳)は、

 

地面に四角の線を引いて、

その四角の中で身を小さくしたのです。

 

 

その様子を見ていた者が、

「何をしてるのか!?」と尋ねると、

 

「ここは何一族の別邸なんだ!」と言ったとか・・・

 

 

 

後にこのことを聞いた曹操は、

 

「何晏は想像を超えてやばいやつだった!

もう少しでそんな奴を養子にする所だった・・・」

と養子にする話をなかったことにしたというものですね。

 

 

まぁ実際に未亡人であった尹氏が曹操の側室になったことで、

 

何晏は曹操の養子になっていますし、

曹操によって大層可愛がられていたというのが実際のところです。

 

ちなみに曹操によって可愛がられたということは、

曹丕からの反感を買って、結構嫌われたりしてるのは余談です。

散歩の由来になった「五石散」

蒼天航路(30巻28 P)より画像引用

 

五石散ごせきさんていうものがあるんだけど、

 

あれを飲むと痛みが和らぐだけでなく、

テンション爆上がりなんだよね!!」

 

って簡単な内容が世説新語に書いてあるのですが、

今でいうところの麻薬に近いものだったんでしょうね。

 

 

 

ちなみに何晏は五石散を飲んで、よく歩き回っていたことから、

「散歩」という言葉が生まれたと言われています。

 

 

まぁ歩き回るのにはきちんと理由があり、

散発を促すという目的があったからですけども、

 

ただ五石散には強い中毒性があったのも事実ですね。

優秀過ぎる王弼

何晏が司馬懿を遠ざけて、

曹爽が実権を握った際に、

 

曹爽グループであった何晏は吏部尚書に任じられたのですが、

これによって何晏は人事全般を取り仕切ります。

 

 

だからこそ何晏の周りには多くの者達を集まってくることになります。

 

 

ある時集まった者達と共に、盛大に議論(論説)していたのですが、

この時に若かりし頃の王弼おうひつがやってきたのです。

 

既に王弼論客として名を馳せていたこともあり、

何晏は自分の元へと王弼を招きつつ問いかけたといいます。

 

 

自信をもって王弼に問いかけた何晏ですが、

王弼は見事に論破!!

 

 

王弼の言葉に反論できるものはおらず、

 

今度は王弼から2・3個の題材を示したのですが、

王弼の問いに応えれる者は誰もいなかったといいます。

 

 

そもそも何晏の才能は曹操が愛したほどでしたが、

 

その何晏とあえて比較することで、

王弼の才能を高く知らしめた逸話になってますね。

何晏と共に「玄学」を創始した王弼(おうひつ)

関わるな、危険!(何晏鄧颺夏侯玄と傅嘏)

何晏かあん鄧颺とうよう夏侯玄かこうげんの三人は、

弁舌を得意としていたのですが、

 

 

三人は更なる高みを目指し、

高名で知られた傅嘏ふかに教えを乞う為に訪問したわけですが、

 

傅嘏は三人に会う事を拒絶!

 

 

そこで荀彧の末子である荀粲じゅんさんに間を取り持ってもらうことに・・・

 

荀粲は傅嘏に対して、

「夏侯玄殿は今勢いに乗ってる名士で、

そんな彼が貴方に敬意を示していて会いたがっておられる!

 

一度ぐらい会ってあげてもいいと思いますよ。

 

もし相性が悪いようなら、

付き合わなければいいだけの話ですし、

 

逆に相性が良いようなら喜ばしい事ではないですか!?

 

 

それだけではなく二人の付き合いが始まれば、

国にとっても有益な事ですし、

 

それはまさに藺相如りんしょうじょ廉頗れんぱの関係と同じみたいなものです。」と・・・。

 

 

 

これに対して傅嘏は、

「私が言いたいのはそういう事ではなく、

三人と立場を近くすることが危ない事なのだ・・・

 

夏侯玄殿は志こそ大きいが落ち着きが全くない。

こういう人物は口先で国を傾ける可能性すらある!

 

 

また他の二人は色々と知ってるようで、

実際は役にも立たない雑学ばかり・・・

 

そればかりか外見ばかりを気にし、

似た考えを持っている者達を重要視し、

違う考えの者達を遠ざけている!!

 

 

それに他人の手柄に妬み恨みばかりで、

こういった者は敵を作りやすいのだ。

 

 

そんな奴らとどうして、

交友を持ちたいと思うだろうか!?

 

とばっちりを食らうのが見えている!」と答えたのでした。

 

 

後に全て傅嘏の言った通りになり、

司馬一族によって処刑されてしまっているのは余談です。

三公希望(何晏・鄧颺と管輅)

何晏と鄧颺が管輅に訊ねた事がありました。

「我々は三公になれるだろうか!?」と・・・

 

それを聞いた管輅は、

軽はずみにそういう事を言うものではない!」

と二人に注意喚起を促します。

 

 

それを聞いた鄧颺はというと、

管輅の言葉を鼻で笑い、

 

逆に何晏はというと、

管輅の言葉が胸に染みたようでした。

 

 

何晏がそう感じた理由としては、

 

我々と普段から親しいわけではないのに、

我々の事を考えて真っすぐに諫めてくれた事に対して感嘆したという・・・

 

そんななんでもないような逸話になっています。

死んで当然の二人(何晏・嵇康

何晏嵇康けいこうは、

一言で言うと、残念な二人というべき人達でした。

 

 

何晏は文辞の巧みを追求したが為に、

一方の嵇康は自分の才能に頼り過ぎた為に、

処刑されてしまう結果に・・・

後世の文学に多大な影響を与えた何晏(何進の孫/曹操の養子)