呉の名将として数えられる人物に韓当がいますが、

韓当にはろくでなしの息子がいました。

 

その息子の名は韓綜かんそうというのですが、

後に呉を裏切って魏に仕えた人物でもありますね。

 

ここではそんな韓綜について見ていきたいと思います。

韓当の二世、韓綜(かんそう)

孫堅・孫策・孫権と孫家三代に仕えた韓当には、

韓綜という息子がいました。

 

 

しかし226年に父である韓当が死亡したことで、

息子であった韓綜は父親の爵位を継承します。

 

それから間もなくのことですが、魏帝であった曹丕が崩御してしまいます!!

 

 

それをきっかけに孫権は五万の大軍を率いて、

江夏郡の石陽に攻んだわけですが、

 

石陽を守るのは、

もともとは劉表に仕えていた文聘という将軍でしたが、

孫権は文聘の守りを崩せずに敗北してしまいます。

 

 

まぁこの戦いに関わらず、

文聘が数十年に渡って江夏を守っていましたけど、

 

一度たりとて敗れていない名将中の名将ではあるのは余談ですね。

 

 

ちなみにですが、この石陽の戦いには韓綜は参加しておらず、

武昌の守りを任されていたようです。

 

そこには父親である韓当を失った事に対しての孫権の配慮もあったのと同時に、

長く喪に服す事が良い事だと思われていたことも理由になりますね。

 

 

まぁ韓綜が石陽の戦いに参加してたとしても、

何も戦況は変わっていなかったとは思いますが・・・

 

 

 

ただ韓綜は父親の喪に服していたどころか、

 

女性との淫らな日々を過ごし、

やりたい放題の日々を送っていたといいます。

 

 

孫権はその事実を聞かされていたにもかかわらず、

韓綜を咎めることはなかったのでした。

 

その理由は父親であった韓当の功績があまりにも大きかったからですね。

 

 

ただ小心者であった韓綜は、そんな事とは露知らず、

 

孫権に自分の行いがばれたことにを知ってからというもの、

怯える日々を過ごしていたわけでして・・・

韓当 -生涯戦場に身を置き続けた勇将-

呉を捨てて魏に走る

「罰せられるのではないか!?」

と不安な日々を送っていた韓綜ですが、

 

その不安が最高潮に達した翌年、

韓綜は一族の者達を引き連れて魏へと走ってしまいます。

 

これは勿の論で呉を裏切る形なんですが、

自分の命を大事にした韓綜には迷いなどあろうはずもなく・・・

 

 

ただ韓綜は韓当の遺体も棺に納めて、

持っていくという有り様なわけでして、

 

この時に孫権が抱いた怒りは、

並々ならぬものだったのは言うまでもないでしょう。

 

 

そんな孫権の感情とは裏腹に曹叡から将軍に任じられ、

広陽侯に封じられています。

韓綜が呉を裏切った裏話

韓綜が罰せられるのを恐れて呉を裏切ることになるわけですが、

 

周りの者達が自分に従わないのではないかと、

疑心暗鬼に陥っていました。

 

そこで韓綜は裕福にさせたいという名目で、

うまく皆をする形で略奪を働かせたのです。

 

 

韓綜は周りの者達に罪を犯させたことで、

「将軍・軍吏をはじめ、

罪を犯した者達は罪に問われるみたいだ!」と嘘の情報を伝え、

 

それに怯えた者達は韓綜に付き従う事を決意したのでした。

 

 

次に韓綜は一族の女性達(姉妹&叔母たち)を、

父親の葬儀の為という理由で集めます。

 

 

しかしそれは韓綜の真っ赤な嘘で、

 

韓綜の側近との結束を高める為に、

一族の女性達を強制的に与えたのでした。

 

またその為に自分の愛した女性(寵妾)さえも配る始末だったわけでして・・・

 

 

そして最後の仕上げとして、

牛の血をすすり合って契りを結び、

魏へ走ったという流れなわけですが、

 

その数は数千人にも及んだと言われています。

韓綜の最後

呉を裏切って魏に走った韓綜ですが、

魏の将軍との立場で何度も呉の国境を襲ったといいます。

 

そして罪なき民衆を殺害しまくったりと・・・

 

 

そんな中で孫権は天に召されるわけですが、

 

252年の東興の戦いで、

呉の将軍であった諸葛恪に敗れて討たれてしまったのでした。

 

諸葛恪は韓綜の首を取り、亡き孫権の廟に捧げることで、

裏切り者を討ち取った事を報告したといいます。

 

 

父親である韓当は孫家三代に仕えた呉の功臣であったのに対し、

息子の韓綜は呉に仇なす人物だったのは皮肉なことですね。