何氏(何姫)-孫晧の母親-
何氏は何姫と呼ばれることも多く、
皇太子であった孫和の側室になり、孫晧を産んだ女性でもあります。
何氏は何遂の娘でしたが、
孫権が行幸中にたまたま何氏を見かけたのがきっかけとなり、
孫権は孫和のもとに何氏を嫁がせたのでした。
そして何氏は孫和との間に孫晧を授かるわけです。
孫晧が生まれた事を大いに喜んだ孫権が、
孫晧に「彭祖」という名を付けてあげたという話も残ってたりしますね。
とりあえずここまで「何氏」という名前で書いてきましたが、
何氏と言えば何進の妹であった何氏(何皇后)などもいたりするため、
ここからは何氏ではなく、「何姫」で名前を統一させて頂きたいと思います。
二宮の変&孫和の廃嫡・自害
順風満帆であるかに見えた何姫ですが、
皇太子であった孫登の死をきっかけにおかしくなっていきました。
孫登の代わりに孫和が皇太子に任じられたわことは、
何姫にとっても非常にめでたかったことですが、
孫覇との間で大きな亀裂が起こることに・・・
この争いを一般的に「二宮の変」といいますが、
最終的に喧嘩両成敗とも言うべき判決が孫権によって下されます。
それによって孫和は廃嫡、孫覇は自害・・・
その後は孫魯班の諫言もあり孫峻が暴走し、
孫覇の後を追うように、孫和もまた自害に追い込まれてしまいます。
孫和の正妻であった張氏も共に・・・
※孫権は既に病死し、孫亮の時代になっています。
まぁ孫和の死は完全に謀られたような死因であったのは余談です。
何姫は孫和が自害してからも、自分の実子であった孫晧をはじめ、
残された孫和の子供達(三人の子)を一生懸命に養育しています。
- 孫晧(そんこう)
- 孫徳(そんとく)
- 孫謙(そんけん)
- 孫俊(そんしゅん)
孫休の即位×孫晧の烏程侯
孫権が病死したことで孫亮が後を継ぎますが、
その中で孫峻が専横政治を行い、
孫峻の死後も孫綝が引き継いで更なる専横政治を行います。
孫亮は孫綝の排除に動くものの、逆に廃位に追い込まれてしまいます。
そして孫休が後を継ぐことになりますが、
孫休は「孫亮の仇」とも言える孫綝の排除に成功していますね。
その際に孫晧は烏程侯に封じられ、
何姫は孫晧に従って、共に任地へと赴いています。
孫休の死&孫晧の即位
孫休が若くして没すると、
孫休の遺言に逆らう形で孫晧が即位します。
孫晧が即位すると、生みの親である何姫を優遇したいと考えていたこともあって、
母親である何姫に対して、昭献皇后の位を授けたのでした。
つまり孫晧にとって、正当な系列は前皇帝であった孫休ではなく、
二宮の変で廃嫡にされた自分の父親の孫和と考え、
母親である何姫こそが正当であるとしたかったのでしょう。
そういう考えもあってか、それから少しして何姫を太后に任じていますね。
何太后と滕皇后×その後
滕皇后は孫晧の正妻でありながら、
寵愛を失ってしまいますが、
何姫は滕皇后をよく弁護してあげた為に、
滕皇后は何姫を大変に慕ったといいます。
そんな何姫ですが、孫晧が妻や妾などを大勢引き連れて、
271年に建業の西にある「華里」という地を訪れた記録を最後に登場しておりません。
その後の何姫の人生としては、
呉が滅亡する280年までに亡くなってしまった可能性もありますが、
おそらく孫晧と滕皇后が洛陽へと移住していることを考えても、
「何姫も共に洛陽へ移住した」と考えるのが普通でではないかと思いますね。
「呉志」何姫伝にまつわる裏事情を推察
何姫についての事は妃嬪伝50巻に、
「昭献何皇后」として個人伝が残されている人物です。
しかし何姫の最後がどうなったのか記載されてない点、
他には記載内容がぶつぎりみたいになってる箇所も多々見られます。
個人伝だと基本的にその人物の生涯について記載されるのが一般的で、
こういった中途半端な「伝」になってしまってることは普通は考えられません。
そういった点から推測するに、
もしかする個人伝である「昭献何皇后」というのは、
もともと書かれる予定のなかったものではないかということです。
孫晧が母親を重視するあまりに皇后に任じたという所がありますしね。
もともと陳寿の著した「三国志」の「呉志」は、
韋昭(韋曜)・華覈らが書いた「呉書」を引用しただけであるとも言われています。
しかしその引用したと言われる「呉書」そのものが、
273年に韋昭(韋曜)に処刑させられ、
275年には残された華覈も、孫晧の怒りを買って遠ざけらてしまったことで、
中途半端な未完のものだと言われているのです。
なので最初の段階では「昭献何皇后」が書かれる予定はなかったものの、
途中で孫晧が昭献皇后に何姫を任じたことで追加されることに決まったのでしょう。
しかし編纂者が処刑させられたり遠ざけたりしたことで、
何姫についての記載が中途半端な状態で呉が滅亡してしまったのではないかと・・・
そしてそれを参考にしたのが陳寿というわけです。
色々と推測してみたりはしましたが、
そういった事が残された文章から推測できたりすること自体が面白いことですよね。