謝夫人(しゃふじん)

後に孫権の正妻となる謝夫人は、

謝煚の娘として誕生します。

 

 

謝氏の一族は、

会稽・山越方面で名が通った一族で、

 

そこに目をつけたのが、

孫権の母親である呉夫人でした。

 

 

そして謝夫人は孫権へと嫁ぐ流れになるわけです。

 

孫権の母親である呉夫人からの薦めなわけですから、

勿論正室としての立ち位置だったのは言うまでもないでしょう。

豪族との繋がりに力を注いだ孫氏

もともと孫権の父親である孫堅は、

兵法家で知られる孫武の子孫なんて自称したりしていましたが、

 

所詮自称止まりであったと言えますし、

名家とはお世辞にも言える家柄ではありませんでした。

 

 

例えば孫策と周瑜の関係を一つとっても、

周氏の方が名家でしたしね。

 

 

だからこそ孫権は周循に孫魯班を嫁がせたり、

周胤に一族の女性を娶らせて、

 

血縁関係を強化していたのはそのためでしょう。

 

 

孫堅の妻である呉夫人だってそうです。

豪族であった呉夫人を半ば強制的に嫁にしていますからね。

 

 

だから孫堅が力を持てたのは、

呉一族との繋がりができたことも大きな要因の一つだと言えるのです。

 

そんな呉夫人が目をかけたのが謝夫人だったわけです。

 

 

呉氏の一族の方が謝氏より格上だったと思いますし、

住まい的にも呉郡呉県出身の呉夫人とは繋がりはあったのでしょう。

 

 

それにしても呉夫人は、したたかな女性だと思いますね。

 

孫氏より大きすぎる豪族であれば、

逆に孫氏の支配下に入る事を嫌う可能性もあったわけで、

 

きちんとそのあたりを考えての結婚であり、

一歩一歩地盤固めをしていった過程での嫁選びだったのでしょう。

孫堅の妻として、孫策・孫権の母として支え続けた呉夫人(ごふじん/呉氏) ~呉夫人なくして呉なし〜

寵愛を失ってしまった謝夫人

政略結婚であった孫権と謝夫人でしたが、

二人の関係は良好でした。

 

ただし徐琨の娘である徐夫人を、

孫権が娶ってからは幸せだった日々も壊れていきます。

 

 

それは正妻であった謝夫人なはずが、

立場的に徐夫人の下に置かれたからですね。

※正妻としての立ち位置の逆転

 

 

謝夫人はそれを拒否するもどうにもならず、

これがかっかけとなり、孫権の寵愛を失っていくことになります。

 

そしてその後の謝夫人は、

そのまま若くしてこの世を去ってしまうのでした。

寵愛薄れた謝夫人の裏事情

寵愛を失ってしまうことになり、

不遇の中で最後を迎えてしまった謝夫人ですが、

 

そもそも謝夫人を呉夫人の下に置こうとしたそもそもの理由は、

呉夫人が亡くなってしまったからではないかと思いますね。

 

 

孫権の母親であった呉夫人が生きている内は、

謝夫人を疎かにするわけにはいかなかったものの、

 

呉夫人が亡くなってしまったことで枷が外れたのでしょう。

 

 

 

呉夫人の死は、

一般的に202年といわれていますから・・・

 

ちなみに三国志に注釈をつけた裴松之は、

呉夫人の死を207年と言っていますけどね。

 

 

どちらにしても謝夫人をないがしろに孫権がしたのは、

呉夫人が死んでしまったからと思っていいでしょう。

 

 

当時の徐琨は多くの私兵を抱えていましたし、

確実に味方にしておかなければいけない存在であり、

 

家柄的にも徐氏の方が、謝氏の一族よりも上だったことも原因だと思います。

謝一族

悲しい最期を迎えてしまった謝夫人ですが、

謝夫人の弟である謝承はその後に名を残した人物です。

 

 

もともと謝夫人の父親である謝煚は、

後漢王朝のもとで尚書令・徐県県令(下邳の県令)を歴任していたこともあり、

 

博学で知られていた謝承は、

後漢王朝の歴史について詳しくなる機会も多かったのでしょう。

 

 

また謝承は博学なだけでなく、

一度知ったことは二度と忘れなかったようで、

 

「後漢書(百余巻)「会稽先賢伝」を残しています。

 

 

 

一般的に我々が知っているのは、

范曄が著した「後漢書」だとは思いますが、

 

「後漢書」はそれ以前からいくつも書かれており、

その最初のものだと言われているのが謝承の「後漢書/紀伝体」になります。

 

 

ちなみに似たようなものは他にも沢山ありますが、

一部有名どころを紹介するだけでも以下のものがあったりしますしね。

  • 「後漢記」(呉の薛瑩/紀伝体)
  • 「続漢書」(西晋の司馬彪/紀伝体)
  • 「後漢書」(西晋の華嶠/紀伝体)
  • 「後漢書」(東晋の謝沈/紀伝体)
  • 「後漢書」(東晋の袁山松/紀伝体)
  • 「後漢紀」(東晋の張璠/編年体)
  • 「後漢紀」(東晋の袁宏/編年体)

 

 

話が「後漢書」の方に完全に流れていきそうなので戻しますが、

 

謝承の著者である「後漢書」「会稽先賢伝」の多くが散逸してしまっており、

現存していないのが残念なことではあります。

 

 

 

そんな謝承の才能は呉でも高く認められることになり、

歩夫人の死後十数年経ってから五官郎中に任じらることとなります。

 

 

最終的には長沙東部都尉・武陵太守にまで出世!

 

 

ちなみに謝承が「後漢書」などの編纂したのは、

武陵太守とかになった後の話なので時系列的に一応補足しておきます。

 

 

そして謝承の息子である謝崇・謝勗もまた評価され、

謝崇が揚威将軍に、謝勗も呉郡太守に任じられたという記録が残っていたりします。

最後に「後漢書」についての余談

上で少し述べていますが、

范曄が著した「後漢書」もこれらの過去の編纂物を多く参考にしています。

  • 「後漢書」(呉の謝承/紀伝体)
  • 「後漢記」(呉の薛瑩/紀伝体)
  • 「続漢書」(西晋の司馬彪/紀伝体)
  • 「後漢書」(西晋の華嶠/紀伝体)
  • 「後漢書」(東晋の謝沈/紀伝体)
  • 「後漢書」(東晋の袁山松/紀伝体)
  • 「後漢紀」(東晋の張璠/編年体)
  • 「後漢紀」(東晋の袁宏/編年体)

 

 

謝承・薛瑩も三国時代の人物でですが、

 

どちらかというと三国時代の幕開けあたりの人物である、

蔡邕・盧植・楊彪らの方が有名な人物でしょう。

 

 

彼らがまとめたものに「東観漢記」というものがあったりしますが、

同時代の編纂である事からの制約があったりで問題点も多かったのです。

 

だからこそ数多くのものが、その後に出てくることになります。

 

 

また司馬彪の「続漢書」に関しては、

范曄が著した「後漢書」の「志」の部分に取り入れられているぐらいですからね。

 

なので一般的に知られる范曄の「後漢書」といっても、

正確には本紀・列伝と司馬彪の志からなる「後漢書」で構成されているわけです。