韋誕(いたん)

太僕を務めていた韋端の息子として、

韋誕は誕生します。

 

韋誕には韋康という兄がいましたが、

韋康・韋誕の二人の兄弟は高い評価を受けていたといいます。

 

 

 

ある時に孔融が韋康・韋誕について、

父親であった韋端に手紙を送ったことがありました。

 

 

その手紙に書かれていた内容は、

「最近貴方の息子である韋康・韋誕がやってきましたが、

 

韋康は才能豊かで、

大きな器を持った人物だと感じました。

 

 

一方の韋誕もまた穏やかな性格で、

かつ誠実な人物でした。

 

それだけでなく書才に優れており、

家を存続させてくれる器の持ち主になることでしょう」と・・・

 

 

またそれに付け加えて、

「貴方のような凡人から、

こんな優れた息子が生まれることはまさに奇跡です!」

孔融らしい空気読まない発言も添えられていたのは余談ですね。

 

 

 

まぁこの逸話かきっかけとなって誕生したのが、

「老蚌生珠」という言葉です。

 

「老蚌生珠」は、

「老蚌、珠を生ず」と訓読みしますが、

 

「年老いた溝貝(蚌/どぶがい)から真珠が作られる」

という意味になります。

 

もっと簡単に言ってしまうと、

凡人の親から優れた息子が生まれるという意味ですね。

韋誕の経歴

韋誕は建安年間上計吏として働いており、

その後に郎中に任ぜられています。

 

建安年間と言っても196年~220年と結構は幅があったりしますので、

本当にアバウトな感じでの記録になっていますね。

 

まぁ曹操が死んだのが220年ですので、まぁそれまでの期間ということですね。

 

 

 

曹叡の時代である太和年間(227年~233年)には、

武都太守に任じられています。

 

その後、韋誕の「書道」の才能が高く評価され、

曹芳の時代には中央に呼び戻されて侍中になっています。

 

 

韋誕は中書監にまで出世し、

最終的には光禄大夫にまで昇っています。

 

 

そんな韋誕ですが、

「253年に75歳で亡くなった」

と簡潔にまとめられています。

「草聖」韋誕

韋誕が「書道」が優れていたことは、

孔融からの手紙にも書かれていたことですが、

 

実際に韋誕は、「草書」「楷書」のどちらも得意としていたようです。

 

 

ただ韋誕自身は、

「楷書」より「草書」をよく好んだようで、

 

「草聖」と呼ばれるようになっていきます。

 

 

ちなみに「草書」とは、

隷書などから発生した書体で、

 

「隷書」を早書きする過程で生まれたと言われています。

 

 

もう少しわかりやすい言い方をすると、

可能な限り点画を省略しているものが「草書」という感じですかね。

 

 

一応「楷書」についても軽く触れておくと、

「草書」と真逆で一点一画を正確に書いたものをいいます。

韋誕が考える「書道」の三点セット

韋誕は文字を書く際に大事なものを三つあげています。

 

一つ目張芝の筆、二つ目左伯の紙、

最後は自身がすった墨でした。

 

 

韋誕はこの三つが揃って初めて、

立派な文字が書けると常々言っていたといいます。

 

この考えに至るまで幾度となく試行錯誤し、

韋誕が辿り着いたのがその三つだったのでしょうね。

「世説新語」にある韋誕の逸話

韋誕は「書道」の達人として、

「世説新語」にも登場しているわけですが、

 

宮殿が造営された時の逸話が載っています。

 

 

それは扁額へんがくを書かされたという話ですが、

 

それが尋常ではない程に高い所の作業で、

韋誕は恐怖のあまりに白髪・白髭になってしまったといいます。

 

扁額とは聞きなれない言葉かもしれないので補足しておくと、

神社の高い位置に掲げられた看板(神社名)みたいなもんですね。

 

 

 

しかし韋誕はこの時の恐怖経験から、

「書道を学ぶことことは止めておけ!」

と自分の子供達に言ったと伝えられています。

 

ただ韋誕の子である韋熊もまた能書家としていたらしいので、

韋誕の言葉はスルーされたのかもしれないですね。

 

 

ちなみにこのことが書かれてあるのは、

三国時代よりもだいぶ後になる唐時代に書かれた「法書要録」という書道の本になります。

 

「法書要録」は漢時代から唐時代までの書道に関する内容で、

中国の書道史を研究する上で非常に重要な書物とされているものですね。