天寿を全うした邯鄲淳(かんたんじゅん)

184年に起こった黄巾の乱を三国志の幕開けと考えると、

邯鄲淳は後漢時代から三国志序盤に活躍した人物になります。

 

 

邯鄲淳はこの時代にあって、

生年没年がはっきりとしている人物で、

 

黄巾の乱の遥か前である132年に誕生しています。

 

 

そして邯鄲淳が亡くなったのは、

曹操が亡くなった220年まで生きているので、

 

この時代ではかなりの長く生きた人物の一人になりますね。

 

 

邯鄲淳についての事は、

ほとんど曹操に仕えてからのものだったりします。

曹植から高い評価を受ける

黄巾の乱で世の中が大いに乱れ、董卓による独裁政治が行われだすと、

邯鄲淳は荊州に避難したといいます。

 

 

 

荊州へと避難した邯鄲淳は劉表に仕えるものの、

 

劉表死後に跡を継いだ劉琮が曹操に降伏したことで、

邯鄲淳も曹操に仕えることとなりました。

 

邯鄲淳の才能を高く評価していた曹操は喜んで邯鄲淳を迎え入れたといいます。

 

 

 

それから少しして曹植が初めて邯鄲淳と会った際に、

曹植が大喜びしたという話が残っていたりします。

 

体を清めた後に顔に白粉を塗り、頭には何も被らなかっただけでなく、

服を脱いで胡舞を舞ったり、剣舞を催したといったような話ですね。

 

 

そして曹操に対して曹植が、

邯鄲淳を側に置きたいと懇願したこともあり、

 

邯鄲淳を曹植直轄の臣下になったのでした。

 

 

曹植は邯鄲淳と四六時中にわたって論ずることもあったようですが、

邯鄲淳の博識ぶりには、曹植もよく驚かされたといいます。

 

 

また逆に邯鄲淳も曹植の才能を非常に高く評価し、

 

曹植を「天上人」

と言ったという話も残っていたりしますね。

曹植 -中国文学の神になった「詩聖」-

曹丕から高い評価を受ける

曹操や曹植から非常に高い評価を受けた邯鄲淳でしたが、

 

邯鄲淳に高い評価を与えたのは曹操・曹植の二人だけではなく、

曹丕もまた高く評価していたのです。

 

 

曹丕は曹植との後継者争いに勝利し、

父親であった曹操が亡くなったことで跡を継ぐことになった人物ですが、

 

漢王朝から禅譲される形で、「魏」を建国した人物でもあるんですよね。

 

 

 

この時に邯鄲淳は、

曹丕から博士給事中に任じられたようですが、

 

曹操が亡くなってから間もなくして、邯鄲淳も亡くなってしまったのでした。

 

 

ただ博士給事中に任じられた邯鄲淳が、「投壺賦」を奏上して、

絹千匹が褒美として与えられたという話が残っています。

 

 

邯鄲淳はまさしくこの時代にあって、

絶大な権力を誇った曹一族から求められただけでなく、

 

天寿を全うし、大往生した人物だったといえるでしょうね。

曹丕 -漢を滅ぼし、魏を建国した初代皇帝-

学者×書家

邯鄲淳は笑話集である「笑林」の著者として知られていますが、

 

他にも有名どころとして、

「芸経」「投壺賦」があったりします。

 

 

邯鄲淳の作品として一番注目すべきは

間違いなく「笑林」でしょうね。

 

なぜなら中国で最古の笑い話集とされているものだからです。

 

 

勿論笑い話としてみることができる話が入っているものならば、

それ以前にもありました。

 

しかし笑い話を意図的に集めたものとなると、

邯鄲淳の「笑林」が初めての書物になるということですね。

 

 

 

ただ「笑林」の原本は、

残念ながら今では現存していないものになりますが、

 

全部で三巻あったというのが、他の残された資料からも分かっています。

 

「隋書」「旧唐書」「新唐書」の目録

邯鄲淳の「笑林」の名が記載されたりもしています。

  • 「隋書」経籍志子部「小説録家」→「笑林三巻 後漢給事中邯鄲淳撰」
  • 「旧唐書」経籍志丙部子録「小説類」→「笑林三巻、邯鄲淳撰」
  • 「新唐書」芸文志丙部子録「小説家類」→「邯鄲淳笑林三巻」

 

 

そして「笑林」は原本こそ失われていますが、

 

「太平広記」「太平御覧」「芸文類聚」

などにはその一部が引用されたりしますので、

 

「笑林」が読みたい人は、そうした引用文として残る本を読む必要がありますね。

 

 

ちなみにですが今に読むことができる「笑林」の内容は、

食べ物に関する逸話が多いような感じになっています。

 

 

 

また邯鄲淳は書家としての一面を持っており、

「説文解字」など古い書体の文字にも精通していました。

 

 

篆書に関して言えば当代随一、

 

隷書でさえも、

梁鵠に次ぐ程の実力の持ち主だったと言われています。