天発神讖碑(てんぱつしんしんひ)

天発神讖碑は、三国時代末期の天璽元年(天冊二年/276年)に、

孫晧によって建てられた石碑になります。

 

正確には既に蜀漢が滅亡し、魏も晋にとってかわられている状況ですので、

二国時代末期という方が正しいかもしれません。

 

ちなみに天璽元年(天冊二年)は呉の元号であるので、

晋の元号であれば咸寧二年に建てられた石碑という事でもあります。

 

 

ただ天発神讖碑は、残念ながら清の時代に焼失してしまっており、

現在残っているのは拓本のみが残されているという状況です。

 

ただそれでも曹操の「袞雪」などと同様に、

約千八百年前の書風が残されているのは奇跡的なことであり、

当時を知りうる上で、一つの貴重な資料であると言えるかと思います。

呉のラストエンペラー(孫晧)

魏の曹丕、蜀漢の劉備に次いで、第三勢力として皇帝を名乗ったが孫権でした。

 

 

黄武八年(229年)に、

「夏口・武昌で黄龍・鳳凰が見られた」

と報告があったことがきっかけで、

 

群臣から皇帝へと即位するように薦められる形で、孫権が即位したのがはじまりになります。

 

またこの時に元号を「黄龍」と改められています。

 

 

そして二宮の変の勃発により国内が衰退していく中で、

第二代皇帝に孫亮、第三代皇帝に孫休が即位し、

 

国内が衰退している中で期待されて即位したのが、第四代皇帝として即位した孫晧でした。

 

 

孫休の遺言としては息子を託していたわけですが、

 

しかし孫休の息子達が幼すぎた事もあり、

万彧・濮陽興・張布らが推した為に孫晧が即位した形でした。

 

 

この際に孫休の妻である朱太后(朱拠の娘)も、

 

「私は未亡人にすぎません。

呉を存続できる人物であれば他の方でも問題ありません。」

と国を想って、自らは表舞台から去ってもいるのは余談ですね。

 

 

そして孫晧が即位したわけですが、

期待されたのとは裏腹に暴政が行われていく事となり、

 

万彧は孫晧より毒酒を飲まされ、

それで死ぬことはなかったもののショックを受けて自害、

 

濮陽興・張布ら二人とも広州へ流罪にあってしまい、その途中で殺害され一族皆殺しとされています。

 

 

また孫晧の即位を認めた朱太后は、

皇太后の位を奪われただけでなく、迫害させて死亡させています。

 

そしてそれだけにとどまらず、孫休と朱太后の息子達も孫皓によって殺害されていますね。

 

 

陳寿「三国志」では長男・次男が殺害された事になっており、

三男・四男がその後にどうなったのかは記録として残されていませんが、

 

その後も名前が登場していないことを考えると、

兄達と同様に望まぬ末路を辿ったと考える方が自然かと思います。

 

 

そしてそんな中で「晋の六方面侵攻」により、

280年に孫晧が降伏した事で、呉は滅亡してしまうのでした。

 

今回紹介する石碑は天璽元年(天冊二年/276年)に建てられたものですので、

呉が滅亡する四年前の石碑だということになりますね。

 

 

孫晧はなにかしら吉兆を示す報告があったりするたびに、

改元であったり、恩赦を繰り返した人物でもあったりしますので、

 

そんな中で建てられた一つが天発神讖碑ということになります。

孫晧 -暴虐の限りを尽くした呉のラストエンペラー

「三国志(正史)」の記録

天発神讖碑についての事は、「呉志」孫晧伝に記載が残されています。

天璽元年 呉郡言臨平湖自漢末草穢壅塞 今更開通

長老相傳 此湖塞 天下亂 此湖開 天下平

又於湖邊得石函 中有小石

青白色 長四寸 廣二寸餘 刻上作皇帝字 於是改年 大赦

-翻訳文-

天璽元年(276)年に、呉郡から次のような報告があった。

「臨平湖は漢の末期頃より雑草が生い茂り、

それによって水路が遮断されていたが、再びその水路が復活した。

 

長老達が言うには、この湖の水路が塞がれば天下が乱れ、

逆にこの湖の水路が通じれば、天下が安定するとのことである。

 

また湖のほとりで石函が発見されたが、その中には青白色の小石が入っており、

その長さは四寸(約9.6cm)で、幅は二寸(約4.8cm)ほどあり、

その石には「皇帝」という文字が刻まれていた。」

 

そこで孫晧は天から賜った印璽という意味を込めて、

「天璽」と改元し、大赦を行ったのである。

天発神讖碑の発見と解読について

孫晧が天発神讖碑を建てて後、長らく忘れられ、

再びこれが発見されたのは北宋時代(960~1127年)でした。

 

天発神讖碑が立てられたのは276年なので、大きな隔たりがあったわけです。

 

 

そんな天発神讖碑でしたが、

それからまた五百年にわたり解読不能だったと言われています。

 

その原因は大きく次の二つでした。

  • 石碑の状態が非常に悪かった点
  • 三つの石から成り立った断碑であった点

 

 

しかし明時代に入ると、周在浚が断碑と見抜いた事で、

研究が一気に加速する事となります。

 

そして次の清の時代に入ると、更に篆書についての研究もされる中で、

三国時代の貴重な資料という事もあって重宝されたといいます。

 

天発神讖碑から読み取れる内容としては、おおまかに呉の治世を褒め称えたものになります。

 

 

1805年に発生した火災によって、

この石碑は焼失してしまうという残念な結果になっています。

 

だからこそ現在は、上での述べたように拓本のみが残されていることになります。

三絶碑・封禅国山碑

天発神讖碑の他にも同時代のものとして有名なのは、

河南省臨頴県城西(繁城鎮漢献帝廟内)に現存している「三絶碑」でしょう。

 

 

「三絶碑」と呼ばれる石碑は、

「魏公卿上尊号奏」と「受禅表」になりますが、

 

ここに刻まれた文章は、「王朗の文」「梁鵠の書」「鍾繇の刻字」とされたもので、

「文・書・刻」において最高峰とされた者達で、これが「三絶碑」と呼ばれる所以です。

 

 

「魏公卿上尊号奏」の石碑には、

四十六名の臣下の者達が、曹丕に禅譲を受けるように薦めた内容で、

 

「受禅表」は禅譲を受けた曹丕を讃えた内容になりますね。

 

 

こういう最高傑作のものが残っていることもあり、

 

孫晧の残した天発神讖碑については、

書体としての評価が低かったりするのもまた事実なのです。

 

ただ三国の魏以外で残されている石碑自体が限られている為に、

非常に貴重な資料であることだけは間違いありません。

 

 

他にも孫晧が天発神讖碑と同じ年に作らせた「封禅国山碑」は、

今でも江蘇省に現存していたりするのは余談です。

「魏公卿上尊号奏(四十六名)」について