曹奐(曹璜/字:景明)

曹奐は、魏の第5代にして最後の皇帝です。
もとの名は曹璜といい、即位後に曹奐と改名しました。
魏の基盤を作った曹操の孫にあたり、
正始七年(246年)に曹宇(燕王) の子として生まれました。
魏王朝は曹芳・曹髦の時代を経て、すでに司馬氏が実権を掌握しており、
曹奐の治世は魏から晋への王朝交代へ向かう最終段階にあたります。
そのため、曹奐は歴代魏皇帝の中でもっとも政治的実権の乏しい皇帝でした。
しかし魏王朝最後の君主として、その名は中国史に刻まれています。
生い立ち&皇帝への即位
曹宇は曹操の子の中でも学識と人格で知られた人物であり、
かつて重臣たちから皇帝候補として名前が挙がったこともありました。
甘露二年(257年)、曹璜は常道郷公に封じられます。
この頃の魏朝では、実権はすでに 司馬昭 が握っており、皇帝は名目的な存在になりつつありました。
甘露五年(260年)、第4代皇帝である曹髦 は、司馬昭の専横に耐えかねて自ら討伐を決意します。
曹髦は近臣たちに対して、
「司馬昭の心は道行く人ですら知っている」と語り、自ら兵を率いて宮城を出ました。
しかし計画は失敗し、賈充の配下である成済によって殺害されます。
これが有名な甘露の変です。
司馬昭は皇帝殺害という前代未聞の事態を収拾するため、新たな皇帝を立てる必要に迫られました。
そこで選ばれたのが曹璜でした。同年六月、曹璜は即位し、名を曹奐と改めます。
しかし、曹奐の即位は司馬昭の意向によるものであり、政治的主導権を持つことはできませんでした。
傀儡皇帝としての治世
曹奐の治世において、
国家の重要政策はすべて司馬昭によって決定されていました。
景元元年(260年)、曹奐は司馬昭を相国・晋公に任じ、
さらに咸熙元年(264年)には司馬昭を晋王に封じました。
これらは魏王朝から司馬氏への権力移譲を象徴する出来事でした。
一方、曹奐自身の事績としては、父である曹宇に特例的な待遇を認めたことや、
曹操の廟に功臣を追加配祀したことなどが記録されています。
しかし、これらはいずれも限定的なものであり、国家の実権は完全に司馬氏の手中にありました。
蜀漢滅亡
そのような中で、景元四年(263年)、司馬昭は魏軍による大規模な蜀征伐を開始します。
鄧艾、鍾会、諸葛緒 らが蜀へ侵攻しました。
この遠征は成功し、蜀の皇帝であった劉禅 が降伏し、約四十年続いた蜀漢は滅亡することとなりました。
蜀漢の滅亡は、司馬昭の威望をさらに高める結果となり、司馬氏による天下統一への道を大きく前進させました。
魏滅亡&晋誕生

咸熙二年(265年)、司馬昭が死去します。
その地位と権力は嫡子の 司馬炎 が継承しました。
司馬炎は父以上に積極的に王朝交代を進めます。
この頃には、魏朝廷内で司馬氏に対抗できる勢力はほとんど存在していませんでした。
咸熙二年(265年)十二月、曹奐は司馬炎へ皇位を譲ります。これがいわゆる禅譲です。
形式上は漢から魏への禅譲と同様に、皇帝が自発的に皇位を譲った形が取られました。
しかし実態としては、司馬氏による政権掌握が完成した瞬間でした。
こうして220年に成立した魏王朝は、45年で幕を閉じます。
司馬炎は新たに晋王朝を建国し、中国史上の 西晋の建国 が誕生したわけです。
退位後の生活
退位した曹奐は陳留王に封じられました。
これはかつて漢王朝が魏に禅譲した後、
最後の漢皇帝であった 劉協 が山陽公に封じられた前例にならったものです。
正史晋書によれば、このとき司馬懿の弟である 司馬孚 は曹奐の手を取って涙を流し、
「私は死ぬまで魏の臣です」と語ったと伝えられています。
司馬孚は司馬氏の一族でありながら、終生魏への忠誠心を失わなかった人物として知られています。
曹奐はその後、鄴へ移り、晋王朝の保護下で余生を送りました。
曹奐は晋代を通じて陳留王として存命し、
太安元年(302年)、八王の乱の最中に死去しました。
死後、晋の皇帝である 司馬衷 によって元帝(元皇帝)の諡号が贈られました。
曹奐が即位した時点で魏王朝の命運はほぼ尽きており、
皇帝として独自に行動できる余地はほとんどありませんでした。
そのため史書における記述も多くありませんが、約45年間続いた魏王朝の最後を見届けた皇帝として今に伝えられています。

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