公孫瓚(こうそんさん、字:伯珪)

公孫瓚は、後漢末期の北方を代表する人物の一人です。

異民族との戦いで名声を築き、精鋭騎兵「白馬義従」を率いて天下にその武名を轟かせました。

 

しかし、その一方で苛烈な性格や独善的な政治によって多くの人心を失い、

最後は袁紹との長い戦いに敗れ、自ら命を絶つことになります。

 

武勇・戦術眼は一流でありながら、政治力と人心掌握に欠けた人物だと言えるでしょう。

長所

  • 卓越した騎兵運用能力
  • 異民族討伐の第一人者
  • 勇猛果敢な指揮官
  • 決断力に優れる
  • 白馬義従を育て上げた軍事的才能

 

短所

  • 人を疑いやすい
  • 豪族や名士を軽視した
  • 政治手腕に乏しい
  • 劉虞を殺害し人望を失った
  • 晩年は猜疑心が強まり組織が崩壊した

 

そんな公孫瓚ですが、公孫家は代々高官を輩出した名門でした。

しかし、公孫瓚は母の身分が低かったため、一族の中では決して恵まれた立場ではありませんでした。

それでも非常に聡明で弁舌に優れ、容姿も整っていたと伝えられています。

 

若くして太守侯氏に見込まれ、その娘婿となったことで、

当代随一の名儒である盧植の門下に入り、経学と兵法を学びました。

この時の学友には、後に蜀漢を建国する劉備もいたとされています。

北方最強と恐れられた騎兵軍団「白馬義従」

公孫瓚最大の象徴が、「白馬義従(はくばぎじゅう)」です。

異民族との戦いを重ねる中で、公孫瓚は騎射に優れた兵士だけを選抜し、すべて白馬に乗せて精鋭部隊を編成しました。

 

白馬は草原でも非常によく目立つため、敵に対する威圧効果は絶大でした。

その勇猛さから異民族は公孫瓚を「白馬長史」と恐れたと伝えられています。

 

白馬義従は三国時代を代表する精鋭騎兵として高く評価される部隊の一つでしょう。

公孫瓚が率いた白馬隊「白馬義従」の栄枯盛衰

異民族討伐で築いた武名

公孫瓚は若い頃から、

  • 鮮卑
  • 烏桓
  • 張純の乱

など北方の戦乱で常に先頭に立ち、多くの戦功を挙げました。

 

特に張純討伐では、捕らえられていた住民を救出し、

そのまま長城を越えて敵軍を追撃するという大胆な作戦を敢行しています。

この頃の公孫瓚は勇猛果敢な将軍として朝廷からも高く評価されました。

劉虞との対立

幽州牧劉虞は、

武力ではなく「徳」と「外交」によって異民族を服従させようと考えていました。

一方、公孫瓚は「異民族は武力で抑えるべきだ」という考えを持っていました。

 

この統治理念の違いが、二人の決定的な対立を生みます。

やがて公孫瓚は軍事行動によって劉虞を破り、捕らえた後に処刑してしまいました。

 

しかし、仁徳で知られた劉虞を殺害したことで、多くの豪族・民衆・異民族の支持を失うことになります。

これが後の没落へと繋がる大きな転機となりました。

河北の覇権を懸けた袁紹との戦い

河北統一を目指す袁紹と、公孫瓚は激しく衝突します。

世にいう界橋の戦いです。

 

この戦いでは、

公孫瓚は

  • 歩兵約三万人
    騎兵約一万人

という大軍を率いました。

 

しかし袁紹軍の名将・麴義が、強弩兵と重装歩兵を巧みに運用し、白馬義従を撃破に成功します。

公孫瓚は大敗を喫し、河北制覇への道は大きく閉ざされました。

易京に築いた巨大要塞

敗戦後、公孫瓚は易京に巨大な城塞を築きます。

そこには

  • 多重城壁
  • 十年分ともいわれる兵糧
  • 高楼による防衛施設

などが整備されていました。

 

公孫瓚は「城を守り続ければ天下の形勢はいずれ変わる」と考え、徹底した籠城戦を選択します。

しかし長期籠城は部下との距離を広げる結果にもなりました。

晩年 -疑心暗鬼が招いた崩壊-

晩年の公孫瓚は、人を信じられなくなります。

 

側近との面会を避け、文書は縄で吊り上げ、

命令は高楼から女性に大声で伝えさせるという異例の体制を築きました。

 

さらに、「一人を救援すると他の将も救援を期待する」という理由から、

包囲された味方を見捨てることもありました。

 

この判断は軍の士気を著しく低下させ、多くの部将が離反する原因となります。

公孫瓚の最期

建安4年(199年)、袁紹軍は地下道を掘り進め、ついに易京を攻略しました。

 

公孫瓚は最後まで抵抗しましたが、勝利は望めないと悟ると、

妻子を自ら手にかけ、城に火を放って自害しました。

 

こうして北方で大きな勢力を誇っていた公孫瓚は、その生涯を閉じたのでした。