劉虞 -人徳によって北方を治めた名君-

劉虞は、後漢王朝の宗室に連なる人物であり、
光武帝 劉秀の長男・劉彊の子孫と伝えられています。
そのため、劉虞は当時の皇族の中でも特に由緒正しい血統を持つ人物として知られ、
多くの人々から深い尊敬を集めていました。
しばしば劉備も漢王室の末裔として語られますが、
劉備の系譜は後世の史料に依拠する部分も多く、詳細には不明な点も残されています。
一方、劉虞は正史においても皇族として明確に記録されており、その家柄に疑いはありません。
しかし、劉虞が人々から支持された理由は、その血筋だけではありませんでした。
温厚で誠実な人柄を持ち、民衆を慈しみ、異民族に対しても武力だけに頼らず、誠意をもって接したため、
漢人だけでなく烏桓や鮮卑など北方諸民族からも厚く慕われていたのです。
張純の乱を平定した最大の功績
中平年間、幽州では張純・張挙が烏桓の有力者 丘力居らと結び、大規模な反乱を起こしました。
この反乱は十万人規模に達したともいわれ、幽州一帯を揺るがす大事件となります。
当初、公孫瓚らは武力による鎮圧を試みましたが、決定的な成果を挙げることはできませんでした。
そこで朝廷は劉虞を幽州牧に任命します。
劉虞は力による征討ではなく、懐柔策を選びました。
もともと丘力居は劉虞を深く敬っており、その徳望を信頼して帰順します。
その結果、張純は孤立し、最終的には部下の王政によって殺害され、反乱は終息しました。
この功績によって劉虞は朝廷から高く評価され、三公の一つである太尉に任じられます。
その後、董卓が政権を掌握すると、劉虞はさらに大司馬に任命されました。
これは当時の朝廷が、劉虞の人望と統治能力に大きな期待を寄せていたことを物語っています。
公孫瓚との対立

一方、幽州では公孫瓚が軍事力を背景に急速に勢力を伸ばしていました。
しかし、公孫瓚と劉虞の政治理念は大きく異なっていました。
劉虞は異民族との共存を重視し、恩義によって国境を安定させようと考えていました。
これに対し、公孫瓚は
「異民族は武力で抑え込むべき存在である」
という考えを持ち、しばしば劉虞の外交政策を妨害しました。
例えば、劉虞が異民族へ与えた恩賞を公孫瓚が奪い取るなど、両者の対立は次第に深刻化していきます。
さらに、公孫瓚は河北で勢力を拡大していた袁紹とも激しく争っていました。
一方で袁紹は劉虞を高く評価し、一時は皇帝に擁立しようとまで考えました。
しかし劉虞は、「皇帝にはすでに献帝がおられる」として固く辞退し、最後まで後漢への忠義を貫いたのです。
十万の軍勢が敗れた理由
やがて公孫瓚が勢力を拡大し続けることに危機感を抱いた劉虞は、討伐軍を編成します。
『後漢書』によれば、その兵力は烏桓・鮮卑などの協力もあって十万人余りに達したとされています。
対する公孫瓚の兵力はこれを大きく下回っていました。
誰もが劉虞の勝利を疑いませんでした。
しかし、ここで劉虞は極めて特徴的な命令を下します。
「公孫瓚だけを捕らえよ。その他の兵士をむやみに殺傷してはならない。」
これは敵兵もまた後漢の民であるという劉虞の慈悲深い考えによるものでした。
ただこの命令は実戦では大きな弱点となります。
兵士たちは思い切った攻撃ができず、戦場で統一した行動を取れなくなってしまいました。
そこへ公孫瓚はわずかな精鋭騎兵を率いて一気に突撃します。
奇襲を受けた劉虞軍は混乱し、圧倒的兵力差を生かせないまま総崩れとなりました。
劉虞は居庸へ退いたものの、公孫瓚の追撃を受けて捕らえられ、薊へ連行されます。
劉虞の最期
捕虜となった劉虞でしたが、その人望は依然として絶大でした。
そこで公孫瓚は、朝廷へ「劉虞は皇帝に即こうとしていた」と虚偽の上奏を行い、処刑の口実を作ろうとします。
さらに使者の段訓にも圧力をかけ、自らに都合のよい証言をさせたとも伝えられています。
劉虞が捕らえられた後、公孫瓚は劉虞を辱めるために次のような趣旨の命令を出したとされています。
| 「卿は天子となるべき人物と天下で称えられている。
それほどの徳があるというなら、天に祈って雨を降らせてみよ。雨が降れば命を助けよう。」 |
しかし時は猛暑であり、そんな都合よく雨など降るはずもなく劉虞は処刑されました。
この逸話は『後漢書』劉虞伝に見られる逸話です。
劉虞を殺した代償
劉虞の死は、公孫瓚にとって決定的な失策となりました。
劉虞を慕っていた漢人の名士たちはもちろん、
これまで劉虞に従っていた烏桓・鮮卑などの北方諸民族までもが公孫瓚から離反します。
劉虞の旧臣であった鮮于輔や閻柔らは異民族と連携し、公孫瓚への反攻を開始しました。
さらに袁紹も劉虞の子・劉和を擁立し、公孫瓚討伐を正当化します。
こうして公孫瓚は内外から完全に孤立していきました。
最後は易京へ籠城したものの、
建安4年(199年)に袁紹軍の総攻撃を受け、居城に火を放って自害したのでした。

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