盧植(ろしょく、字:子幹)

盧植は、後漢末期を代表する人物の一人です。
盧植は幽州涿郡涿県の出身で、正史『後漢書』に伝があり、
正史『三国志』の「魏志」盧毓伝に引用された『続漢書』にもその事績が記されています。
学者としては『礼記』研究の第一人者であり、
政治家としては朝廷を支え、将軍としては黄巾の乱の鎮圧に尽力しました。
また、後に蜀漢を建国する劉備や、公孫瓚の師としても知られ、後漢末の知識人を代表する存在でした。
そんな盧植が若かりし頃、
当代最高峰の大学者・馬融の門下に入り、鄭玄とともに儒学を学びました。
馬融は豪奢な生活を送り、多くの侍女に囲まれて講義を行うことでも知られていました。
しかし盧植はそうした華美な環境に一切心を動かされることなく、ひたすら学問に没頭します。
その真摯な姿勢に馬融も深く感服し、盧植を特別に高く評価したと伝えられています。
また、盧植は『詩経』『書経』『礼記』をはじめとする古典に広く通じ、
学識だけでなく節義にも優れ、多くの人々から尊敬を集めました。
身長は八尺二寸(約189センチ)と非常に長身で、鐘のようによく響く声を持っていたと記されています。
| 身長八尺二寸、音聲如鍾。(『後漢書』盧植伝/呉延史盧趙列伝) |
官界への歩みと地方行政
盧植は州郡から幾度も出仕を求められましたが、
自ら名誉を求めることはなく、その多くを辞退していました。
やがて博士に任じられ、建寧年間には九江太守となります。
九江では異民族の反乱鎮圧を任されましたが、
武力だけに頼るのではなく、恩徳と信義による統治を行ったことで、人々は自然と帰順しました。
任務を終えた後は病を理由に官を辞し、故郷へ戻ります。
この時期には『尚書章句』『礼記解詁』などの著作を執筆し、学問の研究に専念しました。
さらに私塾を開き、多くの若者を育成します。
その門下には、
- 劉備
- 公孫瓚
- 高誘
など、後に歴史へ名を残す人物たちが学びました。
劉備・公孫瓚に関しては説明は省きますが、
高誘は曹操が司空だった際に招かれて司空掾(三公である司空の補佐官)となった人物で、
その後に兗州東郡の濮陽県令、河東郡の監官等も歴任した人物になります。
ちなみに高誘は政治家としての面よりも、学者としてよく知られる人物です。
- 『呂氏春秋』(『呂氏春秋』注は全巻が現存)
- 『淮南子』(『淮南子』注は全21篇のうち13篇が現存)
- 『戦国策』(『戦国策』注は全33巻のうち10巻が現存)
- 『孝経』(現存せず)
朝廷を支えた学者官僚
再び朝廷へ召されると、盧植は議郎・侍中・尚書などを歴任しました。
東観では馬日磾・蔡邕・楊彪ら当代屈指の学者とともに、『漢紀』の編纂や五経の校訂事業に参加します。
また、熹平四年(175年)の熹平石経(記録に残っている最古の石経/蔡邕作)建立の際には、
自ら儒学者として意見書を提出し、後漢学術の発展にも大きく貢献しました。
ちなみにこの盧植の願いは通る事はなかった事も記載しておきます。
そして熹平石経の一部は現存しており、台東区立書道博物館(日本)にも収められています。
政治においても常に国家を憂い、
日食などの天変が起こるたびに皇帝へ上奏して政治改革を訴えました。
しかし霊帝はその忠言を受け入れず、後漢政治は次第に混迷を深めていきます。
折角なので盧植が石経事業に参加を願い出た内容が、今に伝えられているので全文を紹介しておきます。
| 作尚書章句、三禮解詁、時始立太學石經、以正五經文字。
盧植は『尚書章句』と『三礼解詁』を著しましたが、 この頃、朝廷では太学に石経を建立し、五経の文字を正そうとしていました。
植乃上書曰、 そこで盧植は上奏して、次のように述べさせて頂きます。
「臣少從通儒故南郡太守馬融受古學。 私は若い頃、通儒として名高い故・南郡太守の馬融に師事し、古文学を学びました。
頗知今之禮記特多回冗。 そのため、『礼記』についても多少の知識を持っておりますが、 現在流布している書には、なお冗長で誤りの多い箇所が少なくありません。
臣前以周禮諸經、發起秕謬、敢率愚淺、為之解詁、而家乏、無力供繕上。 私は以前、『周礼』をはじめとする諸経について、 その誤りを正し、浅学ながらも注釈(解詁)を著しました。 しかし家が貧しく、その書物を清書して朝廷へ献上するだけの資力がございません。
願得將書生二人、共詣東觀、就官財糧、專心研精、合尚書章句、考禮記失得、庶裁定聖典、刊正碑文。 どうか書生二名をお与えくださり、私とともに東観へ赴いて、 官より筆墨や食糧などの支給を受けながら、一心に研究を重ねさせていただきたく存じます。 そして『尚書章句』を完成させ、『礼記』の得失を詳しく校訂し、聖人の経典を正しく定め、石経に刻まれる本文を誤りなきものとしたいのでございます。
古文科斗、近於為實、而厭抑流俗、降在小學。 また、古文学(古文系)は本来、真実の姿をよく伝える学問であるにもかかわらず、 近年は世俗の風潮によって軽んじられ、小学の一分野として低く扱われています。
中興以來、通儒達士班固、賈逵、鄭興父子、並敦悅之。 しかし後漢が興って以来、班固・賈逵・鄭興父子といった通儒・達識の士はいずれも古文学を尊び、 その価値を高く評価してまいりました。
今毛詩、左氏、周禮各有傳記、其興春秋共相表裏、宜置博士、為立學官、以助後來、以廣聖意。」 今日では、『毛詩』『左氏春秋』『周礼』には、それぞれ伝や注釈が備わっており、 これらは『春秋』の学と相互に補い合う関係にあります。 ゆえに、ぜひとも博士を設けて学官とし、後進の学ぶ道を開き、もって聖人の教えをさらに広く世に伝えて頂きますように、お願い申し上げます。」 |
黄巾の乱と北中郎将

光和7年(184年)、黄巾の乱が勃発すると、
盧植はその文武両道の才能を見込まれ、北中郎将に任命されます。
そして節を授けられ、宗員を副将として北方方面の討伐軍を率いました。
盧植は張角率いる黄巾軍と広宗で対峙し、幾度も勝利を重ね、一万人以上を討ち取る大戦果を挙げます。
張角を広宗へ追い詰めると、雲梯を用いて本格的な攻城戦を開始しました。
当時、戦局はすでに盧植優勢となっており、黄巾軍は滅亡寸前にまで追い込まれていました。
左豊の讒言
勝利目前で、盧植にとって思わぬ悲劇が起こります。
霊帝は宦官の左豊を監軍として派遣しました。
左豊は軍中で盧植に賄賂を要求しましたが、盧植はこれを毅然として拒絶します。
逆恨みした左豊は朝廷へ戻り、
「盧植は戦わず、いたずらに日数を費やしております」
と虚偽の報告を行いました。
これを信じた霊帝は激怒し、盧植を召還してしまったのです。
死罪こそ免れたものの、官職を剥奪され投獄されてしまいます。
その後、皇甫嵩が広宗を攻略し黄巾軍を壊滅させると、
「盧植が敵軍を十分に弱体化させていたからこその勝利です」
と朝廷へ報告しました。
その功績が認められ、盧植は名誉を回復し、再び尚書へ復帰しています。
董卓の専横に異を唱える
中平6年(189年)、霊帝が崩御すると、朝廷は急速に混乱していきます。
何進が董卓を洛陽へ招こうとした際、盧植はその危険性を見抜き、
「董卓は国家を乱す人物です」と強く反対しました。
しかし何進は耳を貸さず、やがて董卓は都へ入り実権を掌握します。
さらに董卓が少帝を廃し、献帝を擁立しようとすると、
百官の多くが沈黙する中、盧植だけは公然と反対しました。
董卓は激怒し、盧植を処刑しようとします。
しかし盧植は天下に知られた大儒であり、
蔡邕や彭伯らが必死に取り成したことで、免職だけに留められました。
学徳が命を救った稀有な例といえるでしょう。
晩年と最期
董卓政権を離れた盧植は、病を理由に都を去り、轘轅道を経て北方へ帰郷しました。
董卓は追手を差し向けましたが、盧植を捕えることはできませんでした。
その後は上谷郡で静かに暮らし、乱世から距離を置きます。
やがて冀州牧となった袁紹から軍師として迎えられ、政治・軍事の両面で助言を与えました。
| 冀州牧袁紹請為軍師(『後漢書』盧植伝/呉延史盧趙列伝) |
しかし初平三年(192年)、病のためその生涯を閉じます。
曹操による顕彰
建安年間、曹操が河北を平定して柳城へ遠征する途中、盧植の故郷・涿郡を訪れました。
曹操は生前の盧植の忠義と学徳を高く評価し、
その功績を顕彰するとともに、子の盧毓らを登用して家門を厚遇しました。
盧植の名声は、後漢の滅亡後もなお失われることはありませんでした。
盧植は、学者・政治家・武将という三つの才能を兼ね備えた後漢屈指の人物でした。
黄巾の乱では国家を救うため最前線で戦い、朝廷では学問によって政治を正そうと努めました。
また、董卓の暴政に対しても信念を曲げることなく諫言し、権勢に屈しない節義を貫いています。
さらに、劉備や公孫瓚を育てた教育者としての功績も大きく、その教えは後の三国時代にも受け継がれました。
乱世において権力や名利を追うことなく、
学問・忠義・人格を生涯守り抜いた盧植は、「後漢最後の大儒」と称されるにふさわしい存在であり、
その名は後世に至るまで深い敬意をもって語り継がれています。



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