劉備から絶大な信頼を受けた霍峻(かくしゅん)
霍峻の名前が登場するのは、
兄である霍篤が亡くなった時期で、
霍峻が兄が率いていた私兵を引き継いだとあります。
ちなみに兄同様に霍峻も劉表に仕えていましたが、
劉表が亡くなった後は劉琦や劉琮に仕えず、劉備に仕えていますね。
そして劉備は霍峻を高く評価し、中郎将に任命しています。
建安十七年、現在でいう212年に、
劉備が劉璋からの誘いを利用して入蜀した際にも、
霍峻は劉備に従って入蜀しています。
そして劉璋と劉備の間で戦いが始まると、
劉備の益州拠点である葭萌関の守りを任せられたのが霍峻でした。
もしも葭萌関を失う事にでもなった場合は、
劉備は益州攻略どころか撤退すらままならない状況に陥り、
劉備は荊州まで撤退することもできず、
この地で討ち取られてしまう可能性の方が高くなっていたことでしょう。
まさに劉備にとって劉璋との激突は、
この一点だけを考えても常に「背水の陣」の状況だったと言えますね。
そんな重要な場所を霍峻に任せたわけですから、
劉備は霍峻の能力を高く評価し、
かつ大きく信頼していたのは間違いないでしょう。
葭萌関の守護神
霍峻は張魯の臣下であった楊帛から、
寝返りの誘いがあったが、
「例え私が死んだとしても、この城は決して渡さぬぞ!」
と楊帛の誘いを突っぱねたのでした。
また劉璋は扶禁・向存に命じ、
一万人の軍勢を率いて攻め込んできます。
葭萌関には千人にも満たない守備兵のみだったにも関わらず、
霍峻は兵を鼓舞してしぶとく守ったわけです。
その結果、扶禁・向存は葭萌関を攻めあぐねてしまい、
一年が経過しても霍峻が守る葭萌関は落城することはありませんでした。
またそれだけにとどまらず、霍峻は扶禁・向存の油断している隙をつき、
扶禁・向存の軍勢を蹴散らし、その際に向存を討ち取っています。
そして劉備自身も雒城で劉循・張任らに苦戦は強いられるものの、
最終的に益州攻略に成功したのでした。
そして霍峻はこの時の功績も含め、
217年に梓潼太守だけでなく、裨将軍にも任じられています。
しかしその後に活躍した記録はなく、
219年に亡くなっており、享年四十歳だったといいます。
霍峻亡き後の劉備の逸話
219年は、夏侯淵を定軍山の戦いで討ち取って、
漢中攻略に成功した年になるので、
張飛と張郃が争った巴西の戦いであったり、
黄権の巴西郡・巴東郡・巴郡の制圧ができた裏側には、
霍峻が葭萌関をきっちりと守ってくれていた影の功績もあったのだろうと思いますね。
そして劉備が漢中攻略に成功した事実を見届けた形で、
亡くなってしまったのでしょうね。
霍峻の遺体は成都に運ばれて埋葬されたのですが、
「劉備は霍峻の死を大変に悲しみ、
墓の側でそのまま宿泊した」といいます。