李氏の三龍
蜀では才能豊かで、
非常に周りから期待された三人の兄弟がいました。
実際は四人兄弟なんですが、その中で三人があまりにも優れていた為、
その三人を合わせて「李氏の三龍」と呼んでいました。
「李氏の三龍」は以下の三人になります。
- 一人目は二男であった李朝(りちょう)
- 二人目は三男であった李邵(りしょう)
- 三人目は四男(名前は不明)
この三人の兄弟は、諸葛亮からも期待されていました。
ですが悲しいかな、三人とも非常に短命で、
活躍の場がそれほどなく、短い活躍のみでこの世を去っています。
その為に限られた記録しか現在に伝わっていません。
李朝(りちょう)
219年に家臣一同として、劉備が漢中王になる際に、
献帝に対して推薦文を提出した際に、その文章は全て李朝が記載しています。
そして劉備は漢中王を名乗るわけです。
そして漢王朝が滅んで、曹丕が皇帝になると、
劉備も皇帝に即位し、魏を認めないという意味で蜀(蜀漢)を興しました。
関羽が殺されると、劉備は復讐戦として呉へ攻め込みますが、
その時、李朝も劉備に従って東征しています。
しかし劉備が夷陵で陸遜に敗北すると、
永安まで逃げのびた222年、その地で死去しています。
李邵(りしょう)
劉備が劉璋を降し、益州を平定すると、
州の書佐部従事となっています。
ある時、廖立(りょうりつ)という人物が、
蒋琬と李邵を前にして劉備・関羽の荊州での失態や向朗・郭攸之について批判をします。
実際、廖立のこういう批判は常日頃からであり、
自分自身の才能が諸葛亮に次いで優れていると自負していた為でした。
二人は、廖立の様子を諸葛亮に知らせると、
廖立は庶人に落とされた上で、汶山郡に流される事になりました。
225年に、諸葛亮が孟獲らの南蛮平定の為に出陣すると、
治中従事として留守を任されますが、この年にこの世を去ってしまいます。
諸葛亮が後に北伐した際に姜維を味方に引き入れるのですが、
この時の姜維の評価を、馬良・李邵の二人を引き合いに出しています。
馬良は、「馬氏の五常、白眉最もよし」と言われた程の人物で、
諸葛亮も大変評価していた人物であり、
その馬良と立場を同じくして引き合いに出された李邵は、
能力が高かったことの一つの証明になると思います。
四男の弟
四男の弟については、資料が現在残っていない為、
名前すら分からないのですが、
李朝・李邵と合わせて「李氏の三龍」と呼ばれていた事からも、
優れていたのは間違いないと思います。
ただ成人する前に早死したこともあり、
資料が残っていなかったというところでしょうか!?
とにもかくにも、唯一現在に名前が伝わらなかった人物が四男になります。
ちなみに馬氏の五人兄弟も、
現在まで名前が伝わっているのは馬良・馬謖の2人だけでした。
李兄弟の四男も似たような感じだと思います。
今回は馬良・馬謖の兄弟(荊州)のような兄弟が、
益州にも存在していたということで紹介させて頂きました。