向朗(しょうろう)
向朗はもともと荊州出身で、
学問が好きで、司馬徽の元で学んでいます。
その為、司馬徽の元で同じく学んだ徐庶や龐統とも仲が良かったそうです。
また荊州出身の馬良や馬謖とも良い関係を築いていました。
そんな向朗ですが、最初劉表に仕えています。
しかし劉表が死んでしまうと、劉備に従っています。
劉備が荊州南軍を制圧すると、
秭帰・巫・夷陵・夷道の4県を任されます。
劉備が益州を獲得すると、
向朗は、太守(巴西太守・牂牁太守・房陵太守)を歴任し、
順調に昇進していっています。
馬謖を庇ってとばっちり(失脚)
諸葛亮(孔明)が第一次北伐を起こし、魏へ攻め込みますが、
馬謖が命令違反を犯したことで街亭で惨敗し、
それが引き金になり、蜀軍は退却を余儀なくされます。
馬謖の罪は許しがたく、
孔明は「泣いて馬謖を切る」ということわざが今でも残るように、
馬謖を斬首の刑に処しています。
これがみなさんが一般的に知る馬謖の最後だと思いますが、
正史では馬謖が処刑される前、街亭から向朗がいた漢中へ逃げてきた際に、
向朗は見て見ぬ振りをしたという記録が残っています。
これに対して、孔明が恨んだと・・・。
「あれ、馬謖は街亭から漢中まで逃げてきたの?」
と思われる人もいるかもしれませんが、そこまで逃げてきたみたいに書かれています。
「ぶっちゃけ一度捕らえられた後に馬謖は脱獄したんじゃないの?」
みたいな別の考え方もできますけどね。
とにもかくにも向朗は荊州から交流のあった馬謖を庇ったばかりに、
孔明の逆鱗に触れてしまったのか、官職を剥がされて失脚してしまうんです。
向朗の復職
向朗が失脚させられて数年後、
その時の罪が許されて、光禄勲(こうろくくん)として復職しています。
そして諸葛亮の死んだ後には、向朗は左将軍・行丞相事にまで昇進もしています。
最終的には三公と同等の待遇であった特進まで出世しています。
ただ復職後の大きな活躍は見られず、政治にも口を挟まなかったようで、
書物の添削などに励み、学問を教える日々を過ごしたそうです。
向朗の評価
後に失脚する事になる廖立(りょうりつ)は、
「向朗は昔から馬良・馬謖と仲が良く称えている。
そんな中で向朗を長史の役職に任命するのは間違っている」と言っているけど、
廖立はそもそも色々人を平気で見下すところがあるので、
今回の街亭の結果だけ見れば見事的中してるけど、
人としてただ向朗を見下してるだけという考えもできるのでなんとも言えない評価かなと思ってます。
ちなみに廖立も諸葛亮に才能を認められたところがあるけど、
短所も多かった人物でした。
また孔明がある時、楊洪(ようこう)に
「張裔(ちょうえい)を長史を任せたいんだけど、どう思う?」
と相談された時には、
「張裔の能力は高いから長史に任命するのは良いと思いますが、
性格に問題があったりする。
それに対して向朗は、誰に対しても公正な態度なので、
向朗の下に張裔につけた方が良いだろう」と向朗の事を高く評価しています。
まぁこの後に、向朗は失脚してしまうのですが・・・
楊洪と言えば、
諸葛亮からも李厳からも高い評価を受けた人物です。
よく考えると、楊洪・張裔以外のここで名前を出た向朗・馬謖・廖立・李厳、
全員何か問題起こして孔明に失脚させられた人が目立ちますね。
この時の蜀は、本当に色々大変な時期だったのでしょう。