厳畯(げんしゅん)

厳畯が若かりし頃、「詩経」「書経」を読み、

学問に励んでいましたが、

 

後漢の権威は地に落ち、

世の中が乱れた際に江東に移ってきた人物です。

 

 

当時、諸葛瑾や歩騭(ほしつ)といった者達も江東に移っていますが、

厳畯・諸葛瑾・歩隲の3人は意気投合し、友人として付き合うようになったそうです。

 

そんな厳畯ですが、張昭によって孫権に推薦された事がきっかけで、

孫権に仕えるようになります。

魯粛の後継者本命に挙げられる

 

呉を大黒柱であった魯粛がこの世を去ると、

孫権は魯粛の後任として厳畯に任命しようとしたことがありました。

 

その背景として、周りからの推薦もすごかったのです。

 

 

しかし厳畯は、「自分はただの学者であり、

そのようなものを魯粛殿の跡に添えても何もいい事はないですよ」

といってこの話を断ります。

 

それでも孫権が任せようとすると、

大声を出してまでこれを断り、最後は涙まで流して断っています。

 

 

厳畯は自分の力量をきちんと把握していたからこそ、

 

目先の出世ではなく、呉の国のことを考えた際、

「ここは自分の出番ではない」と分かっていたのでしょうね。

 

厳畯がかたくなに辞退したことで、

魯粛の後釜に任命されることになったのが呂蒙というわけです。

猛将から知勇兼備の将に成長した呂蒙(りょもう)

 

ちなみにですが、その後に孫権が厳畯を馬に乗せたところ、

厳畯は簡単に落馬するという話が残っていますが、

 

実際軍勢を指揮する事と馬に乗れなかったというのは別個の話なので、

それで厳畯が指揮がとれないということにはならないんですけどね。

蜀への使者

 

孫権が皇帝に即位すると、厳畯は衛尉に任命され、

呉の使者として蜀に赴いた事がありました。

 

その際に厳畯と話した諸葛亮は、厳畯のことを高く評価しています。

 

 

ちなみに衛尉は「九卿(きゅうけい)」にあたるので、

高い官位であり、宮門の護衛を任される仕事になります。

 

まぁ少し疑問に思った人も要るんじゃないでしょうか!?

ここでも兵を率いる仕事を任されているんですよ。

後漢の官僚制度(三公九卿)

 

先程も少し触れましたが、このあたりから考えても、

馬から落馬しただけで、厳畯が軍事面に疎かったと判断するのは無理ある気がします。

 

ただの学者に自分らの命を守らせる重要な仕事を普通は任せませんからね。

友人を庇って罷免される

ある時、厳畯の知人で会った劉穎(りゅうえい)が、

孫権に仕官するように誘った時の事ですが、劉穎はこの誘いを病気と偽って拒否します。

 

後にこれがばれてしまい、孫権は嘘をついた罪で捕らえようとします。

 

この時、厳畯は友人であった劉穎をかばい、

それが孫権の怒りを買い、厳畯は罷免されてしまいます。

 

しかし厳畯の罷免の代償として、

友人の劉穎は何の罪も問われる事がなかったそうです。

その後

後に厳畯は、尚書令に復職しますが、

その後しばらくして、この世を去ってしまいます。

 

厳畯は生涯に渡って、私腹を肥やすことがなく、

孫権から頂いた褒美などは全て周りの者に分け与えたため、

生涯貧乏な生活だったといいます。

 

厳畯は「孝教伝」・「潮水論」を世に残しています。

三国志演義での厳畯

 

三国志演義での厳畯の登場場面は、

赤壁の戦い前に、孔明が呉に訪問してくるんですが、

降伏論側の一人として、張昭らとともに諸葛亮をやりこめる大論会に参加しています。

 

しかし張昭らと同様に、

諸葛亮をやりこめようとして一蹴されている役どころでした。

 

三国志演義は、諸葛亮の犠牲になった人が多すぎなので、

気にする必要はないんですけどね。

陳寿の評価

陳寿は、「程秉(ていへい)・闞沢(かんたく)と並んだ優秀な学者であり、

己を犠牲にして友人を救った人物である」と評価しています。