馬騰・馬超親子に仕え、最終的に曹操に仕えた龐徳!
樊城での関羽との戦いに敗れ、
関羽によって首を刎ねられてしまった龐徳ですが、
生涯をかけて関羽に恨みを忘れなかった人物がいました。
それが龐徳の息子、龐会です。
龐徳の息子、龐会(ほうかい)
関羽との戦いに敗れて処刑されてしまった龐徳でしたが、
龐徳には龐会という息子がいました。
龐会以外にも三人の息子が最低いたことはわかっていますが、
名前は龐会以外分かりません。
そんな龐会ですが、父である龐徳と似た風貌を兼ね備えていたといいます。
龐会は、父の死を非常に悲しみながらも、同時に内に強く湧いた感情がありました。
それは「関羽の一族にいつか報復してやる!」という恨みの気持ちですね。
まぁ当然と言えば当然ですが、
まだ年齢的にも立場的にも未熟だった龐会にとって、
それが簡単に叶えられるような願いではなかったことは言うまでもないです。
あくまで胸に密かに秘めていた想いですね。
関羽は父である龐徳が亡くなった後、
間もなくして呉の孫権にとらわれて処刑されていますが、
曹操もまた間もなくしてこの世を去っています。
曹操が亡くなると曹丕が跡を継ぐんですが、
曹丕は曹操の王位を引き継ぐと、後漢皇帝である献帝に禅譲を迫って皇帝になります。
この時に曹丕は、龐徳の忠義に報いる意味でも、四人の息子に関内侯の位を与えています。
諸葛誕の反乱討伐に参加
毌丘倹・文欽が寿春で反乱を起こし、反乱はあっけなく鎮圧されるんですが、
その後まもなくして寿春で再び諸葛誕による大規模反乱が勃発します。
ちなみに諸葛誕は、魏で三公の一つである司空にまで上り詰めた人物で、
呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮の一族です。
諸葛誕は司馬一族の専横を見かねて、十万人以上の兵士を率いて蜂起したわけですね。
その上に諸葛誕は呉と結び、援軍も送ってもらっています。
そういった経緯から、大規模な反乱に発展しました。
諸葛誕はこの時に龐会も誘っていますが、
龐会ははっきりと諸葛誕の誘いを断っています。
そして司馬師らと共に諸葛誕の鎮圧に楽綝配下として参加し、手柄をあげています。
実際にどのような手柄を立てたのか、
そのあたりの詳しい内容は伝わってないですけど・・・
とりあえず楽綝が戦死した後も、奮闘して戦ったようです。
そして龐会はこの時の功績を評価されて、郷侯に任じられています。
蜀討伐戦への参加
魏の司馬昭は、蜀の国力が低下していたことをきっかけに
ここぞと言わんばかりに鍾会・鄧艾を大将に任じて蜀への侵攻を開始させます。
この時に鍾会の指揮下として、龐会も蜀討伐に参加したのでした。
そして鍾会の指示を受けて、
龐会は胡烈・田続と共に漢中の要害である陽平関を陥落させることに成功!
まぁそのように正史には残っていますが、
正確には蜀の蔣舒の裏切りが発生したことによる陽平関の陥落という方が正しいかなと思います。
陽平関は漢中への入り口的な立ち位置になり、
それは蜀内部へと侵入が本格的に開始される意味にもなるのでした。
その後剣閣を守備していた姜維らと鍾会が激しく激突するのですが、
なかなか突破できない間に鄧艾が陰平道より奇襲をしかけ、劉禅が降伏したことで蜀は滅亡してしまいます。
陽平関など漢中侵攻戦についてのことは、
こちらの記事で記載してるので、興味ある人はこちらをのぞいてみてください。
関羽一族への復讐を果たした龐会
蜀滅亡した際に、龐会が何より願ったのは、
長らく心の奥に押し込めていた関羽の一族への復讐でした。
そしてその機会がやってきた龐会は、
関彝など残っていた関羽の一族を皆殺しにしてしまいます。
つまり父である龐徳が関羽に処刑されてから約45年の月日を経て、
遂に龐会は恨みを晴らすことができたわけです。
ただこのあたりの記載は、
陳寿が書いた正史に記載が残っているわけではないです。
ではどこにそのようなことが書かれてあるのかというと、
王隠が記載した「蜀記」に残っていた記載から持ってこられています。
王隠は天下統一後の晋(西晋)に仕え、異民族の侵入を許して東晋にそのまま仕えた人物で、
「蜀記」以外にも「晋書」「交広記」などを残しました。
陳寿の「三国志」に注釈を加えた裴松之も、
「蜀記」の記載を参考にしているぐらいの書物でもあったのです。
ただ裴松之が参考にしたから、
絶対に正しいとは言えないことも同時に言っておかないといけません。
何故なら蜀滅亡後に龐徳の遺体を掘り出して、
魏へ持ち帰って埋葬してあげたというような記載もあり、
龐徳の遺体は約45年経ってるにも関わらず、
生きているかのようだったという内容もあったりするぐらいですから・・・
まぁ明らかにあり得ないような記載内容ですし、
そもそも敵将であった龐徳が益州で埋葬されたというのもおかしな話ですしね。
そういったところから信憑性は薄れるものの、
関彝など関羽の子孫達が殺されたこともまた事実なんですよね。
その後の龐会が、どうやって最後を迎えたのかなどはよくわかっていません。
ただ龐会が中尉将軍にまで出世し、
列侯に報じられていることだけは記録として伝わっています。