名士の中でも江南に、
「呉の四姓」と呼ばれた有名な一族がいました。
呉の四姓とは簡単に言ってしまえば、
「顧氏」「陸氏」「朱氏」「張氏」の事を指すのですが、
実際孫策・孫権政権には、こういった姓を持つ人も多い事から、
なんとなく想像がつくんじゃないかと思います。
しかし突き詰めれば、二張とも呼ばれ孫策・孫権に仕えた張昭・張紘も、
「呉の四姓である!」と簡単に結論付けるのは早いですね。
そのあたりを文献から探りつつ、「呉の四姓」について見ていきたいと思います。
「呉の四姓」とは?
呉を語る上で避けられない一族が、
今回紹介する「呉の四姓」になるのですが、
彼らは孫権が建てた呉でも多くの活躍をした一族になります。
この時代、強い影響力を持つ名士の存在が各地にありましたが、
呉でも大きな影響力を持った一族が「呉の四姓」ということになりますね。
上でも少し書きましたが、「呉の四姓」は以下の四氏の家の者達で、
以下の姓を持った実績の高い呉の人物も一緒に記載していきたいと思います。
- 顧氏(顧雍の一族/顧雍・顧邵・顧譚・顧悌等)
- 陸氏(陸遜の一族/陸遜・陸康・陸瑁・陸績・陸胤等)
- 朱氏(朱治・朱然・朱桓・朱拠等)
- 張氏(張昭・張紘・張温等)
とりあえず「顧氏」「陸氏」「朱氏」「張氏」の四氏が呉の四姓であり、
呉でも名の通っていた人物を例にあげると、
このような人物が呉の四姓であった可能性が挙げられると思います。
孫策の時代にはあまりにも迅速な領地拡大を行ったこともあり、
「呉の四姓」の協力をほとんど得られなかったと言われています。
実際に「呉の四姓」の多くの者達が力を貸し出したのは、
孫策の跡を継いだ孫権の時代になりますね。
「呉の四姓」の由来
「呉の四姓」が大きな力持った一族であったのにはきちんと理由があります。
ここでは顧氏・陸氏・朱氏・張氏が
なぜ「呉の四姓」の代表格になったのかを探っていきます。
~顧氏の由来~
「呉の四姓」の一角である顧氏は、
臥薪嘗胆などの諺の元になった越王勾践の子孫にあたります。
勾践は大国であった呉を滅ぼして全盛期を築くも、
最終的に楚によって滅ぼされてはいますが、
後に晋が統一を果たし、劉邦が漢を建国すると、
劉邦によって勾践の末裔であった揺を探し出して越王としています。
揺は勾践の七代目後の子孫でしたが、
自分の息子を顧余侯に任じたのが顧氏のはじまりだと言われていますね。
~陸氏の由来~
陸氏はもともと「田」を名乗っており、
もともとは北平郡を拠点としていた一族です。
また田氏は伝説的な聖人と言われた「舜」を祖先とする家柄でもあります。
また斉の宣王の子であった田通が、
平原郡般県の陸郷に封じられています。
そして陸郷から「姓」を取ったのが陸氏の始まりだと言われています。
またこういう話も残っていますね。
それから四代目にあたる人物に陸烈という者がおり、
陸烈が呉の県令(呉令)に任じられ、呉の民衆に大変愛されますが、
この地で死去してしまった際の事です。
陸烈の遺体は故郷に戻らずにこの地で埋葬されることとなります。
それ以来陸氏は、呉郡呉県を本籍とするようになったのです。
~朱氏の由来~
「舜」同様に伝説の五帝と言われた顓頊の孫に陸終と言う人物がいましたが、
その子孫にあたる陸安が「曹」の姓を賜ります。
周の武王が殷を滅ぼすと、曹氏の者が邾侯に封じられています。
その後「邾」という土地は、三国時代の兗州にあたりますが、
楚の攻撃によって滅んでしまいます。
この時に曹氏は「邾」から逃亡し、朱氏と名乗るようになったといいます。
~張氏の由来~
張氏の先祖を遡ると黄帝にまで辿りつきますが、
黄帝の子孫にあたる人物が「張」の姓を賜ったことがありました。
ちなみに劉邦を支えた大功臣に張良という人物がいますが、
張姓を賜った子孫の一人にあたりますね。
また張良の子孫達が呉郡呉県に住みついたことがきっかけとなり、
呉郡呉県の張氏のはじまりだと言われています。
「呉の四姓」の条件
劉義慶が編纂した書物の中で、
後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説に、
「世説新語」というものがあります。
そこには以下のような文が記載されています。
「呉郡有顧陸朱張為四姓。三国之間四姓盛焉。」
これはどういった意味かというと、
「呉郡には顧氏・陸氏・朱氏・張氏の四氏がおり、三
国時代の四姓は非常に有力だった。」
といった意味になるわけです。
この点から考えても、
顧雍の一族が顧氏であり、陸遜一族が陸氏であることが分かります。
どちらも呉郡の一族なのですから!!
そもそも顧雍の一族や陸遜の一族以外に、呉政権下で活躍した顧氏や陸氏はいませんしね。
ただここで問題になるのが朱氏と張氏です。
呉で活躍した朱一族には、孫策の旗揚げ時から支えた朱治、
そしてその養子となっている朱然の一族だけでなく、
孫権に仕えた朱桓・朱然の一族が存在していました。
ちなみに朱治・朱然の一族は丹陽郡の出身で、
朱桓・朱拠の一族は呉郡の出身になりますね。
またこれに関しては、張氏にも同じことが言えます。
孫策時代から仕えた張昭・張紘といった者達の一族ですね。
ちなみにですけど、二人とも徐州出身ですが血のつながりはありません。
相当昔まで祖先を遡ればどうかは不明ですが、残っている資料から見る限りはそうなりますね。
一方の張温はというと、
孫権の時代になって仕えだした人物で呉郡の出身です。
この点から考えると呉郡出身である朱桓・朱拠が、
「呉の四姓」の朱氏ということが言えますし、
一方の張氏も張昭・張紘の一族ではなく、
張温の一族が「呉の四姓」であるということが言えると思います。
呉郡出身の名士である「全氏(全柔・全琮・全端等)」の存在
最初「呉の四姓」の可能性がある人物を以下のように書いたけれども、
- 顧氏(顧雍の一族/顧雍・顧邵・顧譚・顧悌等)
- 陸氏(陸遜の一族/陸遜・陸康・陸瑁・陸績・陸胤等)
- 朱氏(朱治・朱然・朱桓・朱拠等)
- 張氏(張昭・張紘・張温等)
候補から外れた者達を消すと、
- 顧氏(顧雍の一族/顧雍・顧邵・顧譚・顧悌等)
- 陸氏(陸遜の一族/陸遜・陸康・陸瑁・陸績・陸胤等)
- 朱氏(朱桓・朱拠の一族)
- 張氏(張温の一族)
といったように断定することができます。
しかしここで忘れてはいけないのは、
他にも呉郡出身であった全氏の存在になります。
孫策が呉郡に侵攻してきた際には、
孫策の将来性を感じ取って真っ先に孫策に服従した全柔に始まる全一族ですね。
全氏は孫策・孫権に仕えた一族ですが、
その政権下で非常に力を持っていった一族でもあります。
そう考えると疑問がわきませんか!?
陸遜の一族・顧雍の一族・朱桓の一族は皆有名なのに対して、
張温の一族はそこまで活躍したといったようなイメージがありません。
張温の評価は非常に高かったのは間違いない事実ですが、
お世辞にも大きな功績をあげたとはいえませんし、
最後は孫権に疎まれて左遷させれていますし、張温の一族は完全に没落していっていますら、
この点からも三国時代に隆盛した一族とは言えないでしょう。
もし張紘・張昭が張氏であったならば間違いなく納得できますけどね!!
そんな張温の一族が「呉の四姓」に数えられ、
全柔の一族が逆に、
「呉の四姓」に数えられていない点は完全に疑問です。
間違いなく同じ呉郡出身である張温の一族よりも大きな力を持っていた一族ですからね。
ただ上で述べた顧雍・陸遜・朱桓・張温の一族に共通することは、
全員が呉郡呉県の出身であるということです。
一方の全氏は呉郡銭唐県の出身であり、
そのことからも、
呉郡呉県出身の者達が「呉の四姓」
と呼ばれたのでしょう!!
そうであれば張温の一族が「呉の四姓」と呼ばれ、
全柔の一族が「呉の四姓」に選ばれていないという点に納得できますからね。
余談ですが、孫堅の妻となった呉夫人(孫策・孫権の母)は、
両親を早くに失くして弟の呉景と共に銭唐県に住んでいましたが、
もともとは呉郡呉県の出身になります。
強い力を持っていた一族であったことからも孫堅が強く呉夫人を求めて娶っていますし、
そのあたりは資料からも分かるので呉一族も力をもった一族だったでしょうね。
ただ呉夫人・呉景はもともと呉郡呉県の出身であるので、
「呉の四姓」ほどの名家ではなかったことも同時に分かります。
孫策と対立した「呉の四姓」と孫権に取り入った「呉の四姓」
上で述べたように出身地からも推測ができるのですが、
他にもそれを強化させる根拠はあります。
それは孫策と陸遜の一族である陸康との戦いですね。
孫策は戦いの中で、陸康やその一族を死に追いやっていますから、
陸氏にとって敵対する勢力だったわけです。
陸氏は顧氏・朱氏・張氏とも関係が深かったこともあり、
「呉の四姓」は孫策に対しても味方することはありませんでした。
ただ孫策も名士の存在の大事さは知っており、
その為に張昭・張紘・周瑜などを陣営に入れているわけですから、
名の知れた三名の名士のお陰もあって、孫策はなんとか江東・江南制覇に成功しています。
そして「呉の四姓」の可能性を秘めていた張昭・張紘・朱柔・朱治などは、
全員孫策に仕えている点からも、
「呉の四姓」の可能性は低いという事も言えますしね。
一方の呉郡呉県出身の陸遜・顧雍・朱桓・張温の一族は、
「呉の四姓」と対立した孫策ではなく、
孫権に代が代わってから仕え出した点からも判断材料になるかなと思います。