三国志時代の皇帝といえば
魏蜀呉の皇帝となった曹丕・劉備・孫権が真っ先に名が挙がりますが、
曹丕が魏を建国する前には後漢王朝が存在していました。
黄巾の乱が勃発した時の皇帝と言えば、霊帝(十二代皇帝)!
ラストエンペラーと言えば献帝!
どちらかといえばこの二人が三国時代を幕開けた皇帝として有名ですが、
実際はその間に少帝(劉弁)が十三代皇帝として即位していました。
少帝(劉弁)
霊帝が189年に崩御して即位したのが少帝なわけですが、
もともとの姓名は劉弁といいます。
霊帝・献帝もそうですが、少帝も皇帝が崩御した際に諡名として送られる名前なので、
生前は少帝と呼ばれていたわけでは決してありません。
崩御した後に、その皇帝の生涯を漢字に表される感じですね。
例えば霊帝ならば、時代を混乱させたけど、
王朝を滅ぼすまでに至らなかったというのが「霊」という漢字で表されています。
献帝ならば、博聞・多才であるが、
道を究めるまでになかったというのが「献」には含まれていますね。
また献帝(孝献皇帝)とは魏王朝から贈られた名称ですが、
劉備(蜀)からは献帝(孝献皇帝)ではなく、愍帝(孝愍皇帝)とつけられています。
その「愍」には、「国で政事が行われなかったことで、
動乱が長く続いてしまった」なんて意味が含まれています。
そして少帝と称された劉弁ですが、
「少」には幼くして廃位させられたり殺害された皇帝に付けられるもので、
その点だけ見ても劉弁が不幸な最後を迎えたことが分かるのです。
ちなみに劉弁以外に少帝と称された皇帝に、
前漢の四代皇帝になった劉弘や、
後漢の七代皇帝となった劉懿といった人物がいます。
そしてそれぞれに使い分ける為に少帝弘・少帝懿・少帝弁など、
少帝の後に名をつけて呼ばれることも多いです。
そんな劉弁ですが、
大将軍である何進の妹である何皇后と霊帝との間に生まれた子でした。
霊帝としては王美人との間に産んだ劉協を跡継ぎにしたかったのですが、
霊帝崩御の後の後継者争いで勝利したのが劉弁だったわけです。
そうやって十三代皇帝となった少帝ですが、
年齢はわずか17歳だったのです。
ただ後漢時代は幼帝が何人も即位していることからも、
後漢王朝の中では比較的高い年齢だったのも後漢王朝が乱れに乱れた原因でしょうね。
ちなみにですけど後漢(光武帝/劉秀~献帝/劉協)の歴代皇帝で、
四番目に高い年齢だというのは案外知られていません。
もっと言ってしまえば、20歳の年齢を超えて即位いた皇帝は、
初代光武帝(劉秀)と二代目皇帝である明帝(劉荘)の二人しかいません。
ここまでいくとおまけで書いておきますけど、
後漢で三番目に高い年齢で即位したのが三代皇帝になった章帝(劉炟)ですね。
それでも19歳という若さなんですが・・・
少帝即位までの後継者争いの流れ
霊帝は何皇后との間に生まれた劉弁よりも、
王美人との間に生まれた劉協を跡継ぎにしたいと考えていました。
そのため、絶大な信頼を置いていた宦官(中常侍)である蹇碩に、
劉協のことを任せて逝ったのでした。
蹇碩は霊帝から後を託されたように、劉協を跡継ぎにすべく動き出します。
蹇碩は劉協を相違させる際に邪魔になる何進(大将軍)の殺害に動くものの、
同じく宦官であった郭勝が事前に何進に危険を知らせたことで、
蹇碩の目論見は瓦解し、逆に蹇碩が殺害されたことで決着がつきます。
実際は霊帝が生きていた時から、
大きな権力を持っていた何進を僻地に送ろうなどのたくらみを実行していたのですが、
何進がなかなか命令に従わなかったことで、
それがもつれにもつれて霊帝崩御後の蹇碩に託される形になったというのが正確な所です。
これにより何進は蹇碩(西園八校尉の軍団!?)の兵も吸収したことで、
更に絶大な力を獲得したことで、何進に逆える者がいなくなったのでした。
その結果、蹇碩に味方していた者達も何進に轡替えしていき、
劉弁が即位(少帝の誕生)したという流れになっていったわけです。
宦官の逆襲
劉弁が即位したことで、
何進・何皇后など外戚の何一族が万々歳で決着がついたかのように見えましたが、
ここで仲間であるはずの何一族に考え方の違いが生まれてしまいます。
- 宦官撲滅を考える何進
- 宦官並立を考える何皇后(何進の妹)・何苗(何進の弟)
何皇后・何苗に宦官撲滅について抑えるように言われて悩む何進!
というかかなりの優柔不断な感じになります。
そんな中で何進はあべこべに宮中に呼び出されて、
宦官によって殺害されてしまう事態に・・・
ただ何進は宦官を撲滅する為に、
大げさにも王匡・橋瑁・鮑信・張楊・丁原・董卓などを中央に呼び寄せていました。
特に何進が殺されたことで激怒したのが袁紹・袁術などの袁一族で、
宮中に乗り込んで宦官を殺害しまくります。
中常侍であった張譲・段珪は劉弁・劉協を連れて逃げ出しますが、
中央に招かれていた董卓らによって追い込まれる形で入水自殺してしまったのでした。
最終的に宮中で掌握したのは宦官一掃に動いた袁紹・袁術らではなく、
劉弁・劉協の奪還に成功した董卓でしたが、
これが劉弁の命運を決定してしまう事となったのでした。
実際は盧植とかも奪還に動いているんですけどね、
最終的に二人を助けたのが董卓というのが正確な所です。
董卓は暗愚だと判断した劉弁を一方的に廃位させ、
優れた人物だと判断した劉協を代わりに擁立!!
つまり劉弁は在位期間がわずか五カ月もない程度で、
廃位においこまれたということになります。
ちなみに上で書いた盧植は公孫瓚・劉備の師であることでも有名な人物ですが、
少帝の廃位に大反対して処刑されそうになりますけど、最終的に免官でなんとか死刑を免れていますね。
廃位させられた劉弁は、弘農王に封じられますが、
袁紹を筆頭に董卓に反発する諸侯が反董卓連合を結成したことで、
元々何進の配下であり、何進との仲も良好であった袁紹が、
劉弁を擁立することを恐れた董卓によって、
何皇后ともども劉弁は殺害されてしまうのでした。
ちなみにこの時に劉弁に毒酒(毒薬)を飲ませて殺害したのは、
董卓の腹心のイメージが強い李儒ですね。
曹操、劉弁を歴代皇帝の一人に数えず・・・
毒殺された劉弁ですが、少帝と言われる一方で、
弘農懐王が諡名であったことからも十三代皇帝と認められなかったとも言われていますね。
このあたりは時代や人によって認識の違いはあれど、
当時の時代を生きていた曹操は劉弁を歴代皇帝に数えなかったという逸話が残っています。
これは「王朗伝」に記載されている内容ですが、
ある時に曹操が劉弁の墓の前を通ることがありました。
この時に曹操は、皇帝陵として参拝するべきかどうか、
非常にんだことがあったそうです。
これに対して董遇は次のように答えたと言われています。
「少帝はあくまで王なので皇帝の一人には含まれません。
だから参拝する必要あんてありませんよ!」と・・・
これを聞いた曹操は、董遇の言葉を受け入れ、
参拝することはなかったのでした。