孫権の皇帝即位(三国鼎立の完成)

孫権が皇帝へと即位したのは、

諸葛亮が第二次北伐を行っていた頃から少し後のことになります。

 

黄龍元年(229年)、孫権はついに皇帝の位に就きます。

曹丕が220年に魏を建国して皇帝となり、劉備も221年に蜀漢を建国して皇帝となっていましたから、

孫権の即位によって、魏・蜀漢・呉の三国がそれぞれ皇帝を戴く体制が完成したことになります。

 

孫権が皇帝即位を決断した背景には、臣下からの強い推戴がありました。

夏口や武昌では黄龍や鳳凰が現れたという瑞祥が報告され、

臣下たちはこれを皇帝即位の吉兆として受け止め、孫権に即位を勧めたとされています。

 

もちろん、これは正史に記録された政治的な演出でもあり、

単純に「黄龍や鳳凰が現れたから皇帝になった」と考えるべきではありません。

 

孫権自身も、それまで長く「呉王」の地位にありました。

魏から王として封じられていた時期もありましたが、229年には自ら皇帝を称することで、

魏・蜀漢と並ぶ独立した皇帝国家としての立場を明確にしたのです。

 

こうして中国では、魏の曹叡、蜀漢の劉禅、呉の孫権という三人の皇帝が並び立つ時代へと入っていきます。

蜀漢は孫権の即位を認めたのか

ここで興味深いのが、蜀漢と呉の関係です。

劉備と孫権は荊州をめぐって激しく対立し、夷陵の戦いでは両国が直接激突しました。

 

しかし劉備が亡くなった後、

諸葛亮は蜀漢の国益を考え、呉との関係を修復していきます。

 

そのため、孫権が皇帝に即位した際にも、

諸葛亮はこれを正面から否定するのではなく、むしろ外交関係を維持・強化する道を選びました。

 

そこで蜀漢から呉へ派遣されたのが陳震です。

陳震は孫権の皇帝即位を祝賀するとともに、今後も魏に対抗するために蜀漢と呉が協力していくことを確認しました。

 

これは単なる祝賀外交ではありません。

蜀漢にとって魏はあまりにも強大な存在でした。

その魏と対抗するためには、東方に強力な呉が存在していることが非常に重要だったのです。

 

つまり諸葛亮にとっては、

「魏と戦うためにも、呉とは争っている場合ではない」

という現実的な判断があったのでしょう。

 

 

この外交交渉では、さらに興味深い取り決めが行われました。

 

蜀漢と呉が将来的に魏を滅ぼした場合、

それぞれがどの地域を支配するのかという将来の領土分割まで話し合われたのです。

 

取り決めでは、冀州・兗州・并州・涼州を蜀漢側に、

豫州・青州・徐州・幽州を呉側に帰属させ、司州については函谷関を境として分割するという内容が定められました。

 

現在の感覚で考えると、まだ魏が存在している段階で、

「魏を滅ぼした後の領土」を話し合っているわけですから、かなり壮大な構想に見えます。

もちろん、これは現実の領土を実際に分割したという意味ではありません。

 

あくまで、

「魏を共同で打倒した場合には、その後の支配地域をどのように分けるのか」

という外交上の約束でした。

 

この取り決めからも、蜀漢と呉が一時的とはいえ、

魏という共通の敵を前にしてかなり緊密な協力関係を築いていたことが分かります。

呉都を武昌から建業へ

孫権の皇帝即位に伴って、呉の政治の中心も大きく変化します。

孫権が皇帝に即位すると都を武昌から建業へ移しました。

 

ただし、建業がこの時に初めて都として登場したわけではありません。

孫権は以前から建業の重要性を認識していました。

建安十六年(211年)には秣陵を改めて建業とし、ここを政治的な拠点として整備しています。

 

その後、221年に劉備が蜀漢を建国すると、孫権は魏との関係を考慮して武昌へ移りました。

そして229年、皇帝に即位した孫権は再び建業へ戻ります。

こうして建業は、その後の呉における重要な政治的中心地となっていきました。

諸葛亮亡き後の主導権争い

そして話は再び蜀漢へと戻ります。

建興十二年(234年)、五丈原で諸葛亮が病没しました。

 

蜀漢軍は諸葛亮の死後、魏軍との全面衝突を避けながら撤退を開始します。

諸葛亮が生前に残した指示もあり、蜀軍は大きな壊滅を招くことなく撤退することに成功しました。

 

しかし、その撤退途中に蜀漢内部で重大な事件が起こります。

それが、楊儀と魏延の対立でした。

 

楊儀は諸葛亮の北伐を支えた重要な幕僚であり、軍の撤退を取り仕切る立場にありました。

一方の魏延は、劉備の時代から蜀漢を支えてきた有力武将です。

 

特に魏との戦いでは長年にわたって重要な役割を果たしており、蜀漢軍の中でも屈指の実戦経験を持つ人物でした。

ところが、この二人は以前から非常に仲が悪く、諸葛亮が亡くなると、その対立が一気に表面化します。

 

楊儀らは諸葛亮の方針に従って撤退しようとしました。

ところが魏延は撤退に反対し、北伐を継続しようとします。

そのため両者は互いに相手を「反乱を起こそうとしている」と訴える状況になりました。

 

ここは後世の物語では、

「魏延が諸葛亮亡き後に反乱を起こした」

と単純化されがちなところです。

 

しかし正史を見ると、魏延が最初から蜀漢そのものを裏切ろうとしていたと断定するのは慎重であるべきです。

魏延には魏と戦い続けたいという強い意志があり、楊儀は諸葛亮の遺命に従って撤退しようとしていました。

 

つまり、

「北伐を継続するのか、それとも撤退するのか」

という軍事方針の対立が、以前からの両者の不仲と結びつき、最悪の結果へと発展したと見るほうが正確です。

魏延の最期&楊儀の最期

最終的に魏延は軍を率いて楊儀らと対立し、戦闘となります。

しかし魏延の軍は敗れ、魏延は逃走しました。

そしてここで魏延を追撃して討ち取ったのが馬岱です。

 

魏延の死後、その首は楊儀のもとへ届けられました。

 

楊儀は魏延の首を踏みつけ、

「こんな奴が何をしようというのか」

といった趣旨の言葉を発したと伝えられており、二人の確執がいかに深かったかをうかがわせます。

 

しかし、魏延を討った楊儀が、そのまま蜀漢の中心人物となったわけではありません。

むしろその後、楊儀自身も不満を募らせていきます。

 

諸葛亮の死後、楊儀は自分こそ諸葛亮の後継者として重用されると期待していたようですが、

実際には蒋琬が中央で重用されるようになります。

 

これに対して楊儀は不満を抱き、周囲に不平を漏らすようになりました。

やがてその発言が問題視され、楊儀は官職を失って庶人に落とされます。

さらに流刑となった後も不満を述べ続けたため、罪を問われることになりました。

そして最終的に楊儀は自殺してしまいます。

 

こうして、諸葛亮の死後に蜀軍の中枢を担った楊儀と魏延という二人の有力者は、

ほぼ同じ時期に歴史の表舞台から姿を消すことになったのです。

 

しかし蜀漢には、まだ優れた人材が残されていました。

諸葛亮の後継者として政務を担った蒋琬、その後を支えた費禕、さらに董允や姜維などが蜀漢を支えていくことになります。

 

諸葛亮という巨大な存在を失った蜀漢は大きな転換点を迎えましたが、

それでも国家そのものが崩壊することはありませんでした。

遼東に現れたもう一つの勢力「燕」

この頃、中華東北部に位置する遼東では、もう一つの大きな事件が起こっていました。

遼東を長らく支配していたのは、公孫氏でした。

 

ちなみにこの公孫氏は、かつて幽州で勢力を拡大した公孫瓚とは別系統の一族になります。

 

こちらの公孫氏の基礎を築いたのは公孫度であり、

その後、公孫康、公孫恭へと遼東の支配が受け継がれていきました。

そして公孫恭の時代に台頭したのが、公孫淵です。

 

公孫淵は叔父の公孫恭から実権を奪い、遼東太守の地位を手に入れます。

彼は魏と呉の双方を巧みに利用する外交を展開しました。

 

ところが、この二重外交が次第に危険な状況を生み出していきます。

233年には、孫権が公孫淵を燕王に封じようとして張弥・許晏らを派遣しました。

 

しかし公孫淵は孫権から派遣された使者を殺害し、魏に接近します。

この対応に孫権は激怒しました。

 

ところが公孫淵は、その後も情勢を見ながら魏に反旗を翻すことになります。

公孫淵、「燕王」を称する

景初元年(237年)、公孫淵はついに魏に対して反旗を翻し、自ら「燕王」を称しました。

 

公孫淵が魏に反旗を翻した以上、魏も黙って見ているわけにはいきません。

明帝・曹叡は司馬懿に公孫淵討伐を命じます。

 

景初二年(238年)、司馬懿は大軍を率いて遼東へ進軍しました。

公孫淵は単独で魏と戦うことが難しいと判断し、今度は呉に救援を求めます。

孫権にとっては、かつて自分の使者を殺した公孫淵です。

それでも、魏を後方から牽制できる可能性を考え、呉は公孫淵への支援を行いました。

 

しかし、司馬懿の進軍は非常に速く、魏軍は遼東の中心部へ迫ります。

最終的に司馬懿は公孫淵の本拠地である襄平を包囲しました。

長雨などによって魏軍も苦しい戦いを強いられましたが、最終的には襄平が陥落します。

 

公孫淵は逃亡を図りましたが捕らえられ、殺害されました。

こうして遼東で長年続いた公孫氏の支配も終焉を迎えます。

 

そして、この遼東征伐は日本列島にも思わぬ影響を与えることになります。

卑弥呼、魏へ使者を送る(「親魏倭王」の誕生)

公孫淵が滅ぼされたのと同じ景初二年(238年)、

日本列島の歴史においても非常に重要な出来事が起こります。

邪馬台国の女王・卑弥呼が魏へ使者を送ったのです。

 

魏志倭人伝(『三国志』「魏志」烏丸鮮卑東夷伝倭人条)によれば、

卑弥呼は大夫の難升米らを帯方郡へ派遣し、魏の天子に朝貢したいと申し出ました。

 

帯方郡太守の劉夏は使者を魏の都へ送り届けます。

そして難升米らは、男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈を献上しました。

 

これに対して魏の明帝・曹叡は卑弥呼に詔を与え、

「親魏倭王」の称号を認め、金印・紫綬を授けることにしました。

 

さらに難升米には率善中郎将、

都市牛利には率善校尉の官位を与え、絹織物や金、刀、銅鏡など、非常に多くの品物を下賜しています。

特に銅鏡百枚が含まれていたことは、日本古代史を考えるうえでも非常に重要な記録です。

卑弥呼が魏へ使者を送った理由

では、なぜ卑弥呼はわざわざ遠く離れた魏へ使者を送ったのでしょうか。

 

正史『三国志』には、卑弥呼が魏との外交によって何を狙っていたのか、

その政治的意図が詳しく説明されているわけではありません。

 

ただし、魏志倭人伝には、

後に卑弥呼の勢力と狗奴国との間に対立があったことが記されています。

 

そのため、魏から「親魏倭王」という権威を与えられることによって、

自らの王権をより強固なものにしようとしたのではないかと考えることはできます。

 

ただし、これは史料から導かれる推測であり、

「狗奴国に対抗するために魏の後ろ盾を求めた」と断定することはできません。

 

また、「魏が呉を牽制するために卑弥呼を利用した」という説も考えられますが、こ

れも正史に明記された事実ではありません。

 

魏にとって倭との外交関係が重要だったことは確かですが、

呉を牽制することが卑弥呼への冊封の直接的な目的だったと断定するのは避けたほうがよいでしょう。

 

他にも「遼東半島の公孫氏が邪魔をしていた」という説についても注意したいところです。

倭と中国王朝との交流は、卑弥呼の時代以前から存在しています。

 

後漢の光武帝の時代には倭奴国の使者が朝貢し、

さらに後漢の安帝の時代にも倭国王帥升らが朝貢した記録があります。

 

したがって、「公孫氏が遼東を支配していたため、

倭との交流が長期間完全に遮断されていた」とすることはできません。

 

ただし、公孫氏が遼東を支配していたことによって、

魏の中央政府と朝鮮半島・東方地域との交通や政治関係が複雑になっていたことは考えられます。

 

そして238年に司馬懿が公孫氏を滅ぼした直後、

卑弥呼の使者が魏へ到着したことは、非常に興味深い歴史的なタイミングだったと言えるでしょう。

「親魏倭王」の意味

卑弥呼に与えられた「親魏倭王」という称号は、単なる外交上の贈り物ではありません。

 

魏という中国の皇帝国家から、

「倭の女王として認められた」

ことを意味する非常に大きな政治的権威でした。

 

さらに金印・紫綬が与えられ、

多数の絹織物や銅鏡などが下賜されたことを考えると、

魏が卑弥呼との外交をかなり丁重に扱っていたことが分かります。

三国鼎立の時代、その舞台裏

229年の孫権の皇帝即位、234年の諸葛亮の死、238年の公孫淵滅亡と卑弥呼の魏への朝貢が続きます。

表面だけを見ると、魏・呉・蜀漢の三国が天下を争っている時代です。

 

しかし、その舞台裏では、蜀漢と呉が魏を挟み撃ちにするための外交を進め、

魏は遼東の公孫氏を滅ぼして北東方面を直接支配下に置き、

その直後には倭の女王・卑弥呼が魏との外交関係を結ぶという、非常に大きな変化が起こっていました。

 

そして、この流れの中で重要なのが、諸葛亮亡き後の蜀漢です。

諸葛亮という巨大な柱を失った蜀漢は、蒋琬・費禕らへ政権を引き継ぎながら、何とか国家を維持していくことになります。

 

一方、魏では司馬懿の存在感がますます高まり、呉では孫権が皇帝として長期政権を築いていきます。

そして東の海の彼方では、卑弥呼が魏から「親魏倭王」の称号を受けることになります。

 

三国時代というと魏・呉・蜀漢だけに目が向きがちですが、

この時代の東アジアでは、こうした複数の勢力が複雑に結びつきながら歴史を動かしていたのです。

した。

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