曹操 孟徳(そうそう もうとく)

魏の基礎を築いた人物(155年 ~ 220年3月15日)。

 

才能の塊のような人物で、

「治世の能臣、乱世の奸雄」と評され、三国志の中の完璧超人(オールラウンダー)。

「孟徳新書」の著者。

 

幼少時

若い時は、女遊びに夢中で、

だらしない格好して、ならず者たちとよく一緒に遊んでいたみたい。

 

日本でいえば、まさに織田信長の中国版って感じだね。

 

曹操の父は、曹嵩(そうすう)の子だったんだけど、

宦官のお偉いさん(大長秋という宦官の最高位)だった曹騰(そうとう)の養子になって、

家柄的にも、やりたい放題やってたんだ。

 

なので世間の評判はめちゃくちゃ悪かった(笑)

 

 

でも橋玄という人には、

「今の乱れた世の中を救えるのは、当代一の才の持ち主だけだ。そしてそれは君だ。」

と言われたり、

 

人物鑑定で有名な許劭(きょしょう)には、

「治世の能臣、乱世の奸雄」と高い評価も受けている。

 

「治世の能臣、乱世の奸雄」とは、

「平和な世の中なら優秀な役人どまりだが、世の中が乱れている時は英雄になれる」っていう意味。

洛陽北部尉に就任

曹操が20歳になった時、

洛陽の「北部尉」に任命されたんだ。

 

洛陽は当時の都だから、

都の治安を守る警察みたいな役割だね。

 

もちろんお偉いさんだった曹騰のコネを全力で使ったのはいうまでもない。

 

この時の曹操は、

誰でもあってもルールを破るものは、容赦なく罰則を与えて取り締まってたんだ。

 

有名な話は、

「禁令を破った者は、誰であっても棒叩きの刑に処す」というルール。

 

この時代、残酷な刑罰は廃止されてたんだけど、

曹操は治安を正す為には必要な事だとして、遠慮なく復活させちゃうんだ。

 

当時、霊帝(当時の皇帝)のお気に入りの宦官に蹇碩(けんせき)ってのがいたんだけど、

蹇碩の叔父が、「夜間外出禁止」というルールに違反した際に、

蹇碩の叔父を容赦なく棒叩きを実行して、殺してしまったんだよね。

 

それ以来、ルールを破る人はいなくなったのは言うまでもない。

黄巾の乱勃発

その後張角を教祖とする「黄巾の乱」が勃発し、

曹操は「騎都尉」として討伐に参加してる。

「三国志演技」では、曹操初登場シーンがここになるんだ。

 

横山光輝三国志では、

後のライバルとなる劉備と曹操の初顔合わせの様子が描かれてる。

反董卓連合軍への参加

霊帝が死んで、小帝(劉弁)が即位するんだけど、

董卓(とうたく)が都に乗り込んで、献帝(劉協)を帝にしたんだ。

 

これに反発して、袁紹(えんしょう)が、反董卓連合を組んで

董卓をやっつけようとしたんだけど、曹操もこの連合に参加してる。

 

一進一退の攻防だったんだけど、

董卓が都であった洛陽を燃やして、前漢の都であった長安に遷都したのをきっかけに、

反董卓連合も解散しちゃったんだよね。

 

それでみんな戦い止めちゃったんだけど、

曹操だけは、追撃して董卓を打つことを主張するんだけど、

他の連合の人達はやる気なくて、一人で追うんだけど、返り討ちにあっちゃう。

曹操軍、青洲兵を手に入れる

追撃失敗後は、再起の機会を待っていたんだけど、

色々あって、やっと自分の地盤を持てるようになるんだ。

 

この時に曹操軍の主力になった、

黄巾族の残党を味方にしたのがものすごく大きかった。

 

黄巾族残党って聞くとそんないなかったんだろうなぁと思う人もいるかもしれないけど、

100万人程度いたと言われているんだ。

 

もちろん話が膨らんで伝わっているところはあるんだろうけど、

それでも大変な数だったのは間違いない。

 

この黄巾族残党を曹操は降伏させている。

そしてこの降伏した中から優れたものだけを選んで、10万人の精鋭を作っている。

この精鋭が「青州兵」

 

曹操が後に飛躍できたのは、

この青州兵があったからだと言っても過言ではないレベル。