樊城の戦い(関羽VS曹仁・徐晃)
蒼天航路(35巻181・182P)より画像引用
建安二十四年(219年)に、
荊州を任されていた関羽が、曹操に戦をしかけてきました。
この際の関羽の兵力は三万~四万程度だったと言われていますが、
きちんとした記録が残されているわけではありません。
この時に樊城を守っていたのは、幾度となく曹操を支えてきた曹仁でしたが、
この時の曹仁の軍勢は人馬含み数千程度だったといいます。
ただ于禁の七軍の援軍(約三万人程度)が到着した事で、
曹仁は龐徳に樊城の北十里(樊城北東)の場所に配置し、連携を取れるようにしたのでした。
しかし曹仁らに運は味方せず、
タイミングよく長雨になってしまった事で漢水が大氾濫を起こしてしまいます。
これにより城内が水浸しの状態になり、
関羽の軍勢によって樊城は完全に包囲されたわけです。
また于禁は戦いどころではなく、あっさりと降伏し、
龐徳は乞孤軍奮闘するものの、最終的に捕縛&処刑されてしまいます。
関羽の快進撃は天を衝くほどの勢いであり、
これに曹操も許昌から遷都を考えたほどだったといいます。
また曹操は関羽に対応すべく、呉の孫権と手を結ぶのですが、
それと共に徐晃を樊城の援軍として差し向けたわけです。
しかし徐晃が樊城に到着した頃には、
既に関羽によって完全に包囲されている状態でした。
これを見た徐晃は凄まじい勢いで一気に駆け抜け、
関羽の包囲網を打ち崩して樊城まで到着したといいます。
これにより関羽の包囲網は崩れ去れさったのでした。
ちなみにこの時に関羽が徐晃と戦う事を避けたという逸話が
「三国志(正史)」に注釈がある「蜀記」には書かれてあったりします。
関羽と徐晃は共に司隷河東郡出身で同郷の者達であり、
敵味方として再会した樊城では、「二人は親しく話した」とされています。
親しく会話した徐晃は、その後に自分の立場を遂行すべく、
「関羽を討て!」と命令を飛ばしたのでした。
この徐晃の言葉に驚いたのは関羽であったのは言うまでもないでしょう。
ちなみにこの際に関羽は徐晃の事を「大兄」と呼んでいることからも、
関羽と徐晃の二人は、劉備と出会う前に友人だった可能性があったりするのは余談ではあります。
曹操から大絶賛された徐晃
この徐晃の突撃に対して、
「徐晃のように長い距離を一気に駆け抜け、
包囲網を突破した者など、今まで聞いたことがない!」
と曹操は徐晃を大絶賛したのでした。
曹操が徐晃に対して放ったこの言葉が、
「長駆直入(長駆)」の現在の由来になっています。
そしてこれほど大きな功績を挙げたにも関わらず、
徐晃は全く浮かれる事もなく冷静沈着で落ち着いていたと言います。
曹操は徐晃を十分に絶賛したにも関わらず、まだ褒めたらない様子で、
「徐晃には周亜夫の風格がある」
と続けて言ったと伝わっています。
その後の関羽は樊城ばかりか、襄陽包囲を解いて撤退を開始しますが、
公安の傅士仁、江陵の糜竺は既に呉に降伏しており、
関羽は古城であった麦城へと急遽撤退し、
最終的に荊州から撤退を試みるものの、
臨沮の地にて潘璋らに捕らえられて処刑されてしまっています。
タラレバではありますが、それでももしも徐晃の突撃がなかったとすれば、
その後の未来は大きく変わっていた可能性もあるかと思いますね。
周亜夫とは、劉邦の元で大活躍した周勃の息子で、
呉楚七国の乱を鎮圧した名将のことです。
役職は丞相の位まで上がっていますが、 最終的に失脚させられ、悲惨な運命を辿った人物でもあります。 |