黄巾賊討伐での董卓(仲穎)の失態

董卓は董君雅の次男として誕生した人物で、
兄に董擢、弟に董旻がいた事が後漢書や三国志の注釈に残されています。
董君雅・董擢・董旻の関係についての記録が残されているのは、以下の注釈である。
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董卓は武芸に優れ、腕力も強く、馬を走らせながら左右どちらへでも弓矢を放てたといいます。
これが意味する所として、董卓は両利きだったのでしょう。
董卓は黄巾の乱が勃発した際には、
失脚した盧植の後任として中郎将に取り立てられますが、
思うような結果が出せずに罷免させられています。
ちなみに黄巾の乱は皇甫嵩・朱儁らの活躍により鎮静化していくこととなります。
- 張角(病死)
- 張宝・張梁(戦死)
霊帝崩御後の後継者問題(劉弁&劉協)

184年に黄巾の乱が勃発して五年後にあたる189年に霊帝が崩御すると、
誰が次の皇帝に即位するのかでの後継者問題が発生します。
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劉弁側は何皇后(劉弁の母親)・何進(大将軍)・何苗らが支持しており、
劉協側は劉協の育ての親でもあった董太后(霊帝の母親)や宦官が支持している形でした。
この後継者争いは表向きは劉弁VS劉協であったわけですが、
実際は外戚 VS 宦官という間接的な構図が成り立っていたわけです。
ただ最終的には外戚であった何進らが押し切って劉弁が即位したわけですが、
何進らと宦官の間には深い溝ができていました。
| もともと霊帝は崩御前に自らが寵愛していた蹇碩という宦官に対して、
劉協を跡継ぎとするようにと託していた事があった際に、蹇碩は何進殺害を企てた事がありました。
蹇碩は董太后の甥であった董重と手を組んで何進殺害を企てましたが、 何進と親密な関係にあった潘隠(司馬)に密告された事でこの計画は失敗に終わります。
その後に劉弁が即位すると、他の宦官らも何進に味方した事で、 孤立した蹇碩は殺害され、董重もまた自決し、董太后も失脚した後に急死したと記録には残されています。 |
何進は宦官らを信用できずに宦官らの殺害を企てますが、
何進の動向を知った宦官によってあべこべに殺害されてしまいます。
ただ何進は亡くなる前に各地の群雄を洛陽へと招いていた事で事態は複雑化していきます。
まず袁紹や袁術は宮廷内に侵入すると、宦官の大虐殺を行いました。
この時に髭が薄い者達も宦官と勘違いされて殺害される事態も発生し、殺害された者達は二千人にも及んだそうです。
また自らが宦官でない事を証明する為に、裸となって証明して逃げた者達も多くいたといいます。
朝廷掌握に成功した董卓

宦官大虐殺の混乱の中で、張譲・段珪らが宮廷より劉弁と劉協を連れて逃亡を図ります。
ちなみに張譲・段珪らは十常侍(中常侍)といって宦官の中でも特に力を持っていた者達の中の二人になります。
| 「後漢書(正史)」記載の十常侍 | 「三国志演義」記載の十常侍 |
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この時に張譲・段珪らは董卓・盧植・呉匡らから追撃を受けた事で、
これ以上逃げられないと悟った二人は入水自殺をして果てます。
そして最終的に劉弁・劉協を保護したのが董卓だったわけです。
ちなみにこの時に董卓が洛陽にいたのは、何進が生前に各地に声を掛けた事が理由になります。
董卓は二人を連れて洛陽の宮廷へと入り、宮廷内の掌握に成功したのでした。
董卓が洛陽へ入城した当初、軍勢は三千人のみであり、
自らの軍勢を多く見せる為に、四・五日おきの夜を見計らって自兵を城外に出し、
翌日に今到着したかのように入城を繰り返させた事で、董卓の軍勢があまりにも多いだろうと周囲に印象付けたといいます。
また董卓は兵士水増し作戦を決行すると同時に、
朝廷内の混乱の中で主君を失っていた何進や何苗(何皇后の異父兄)の兵を吸収しただけではなく、
丁原の配下であった呂布を裏切らせて丁原を殺害させ、丁原の兵までも吸収する事に成功しています。
| 三国志演義では丁原と呂布は親子の契りを結んでいた設定ですが、
正史後漢書・正史三国志には、二人が親子の契りを結んでいたという記録はありません。
一方で丁原を殺害して董卓に仕えた呂布ですが、 董卓と呂布が親子の契りを結んだ事は、正史三国志(「魏志」呂布伝)に残されています。 |
董卓は少帝(劉弁)を廃帝とし、新たに献帝(劉協)を新帝として即位させ、
完全に独裁政治を敷いて行く事となります。
劉弁の母親であった何皇后(何太后)は幽閉された後に殺害され、
廃帝とされた劉弁もまた翌年に、董卓の配下である李儒によって毒殺される事となります。

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