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曹操 -青州兵の獲得-

反董卓連合崩壊後、各地の群雄たちはそれぞれ勢力拡大に乗り出します。
その中で急成長したのが曹操でした。
当初の曹操は決して大勢力ではなく、むしろ小規模な軍閥の一人に過ぎませんでした。
しかし彼は非常に優れた政治力・軍事力・人材登用能力を持っていました。
特に大きかったのが、青州地方の黄巾賊残党を吸収したことです。
この黄巾残党は百万人規模とも言われる程の巨大な勢力でしたが、
曹操は彼らを単に討伐するのではなく、
- 降伏者を受け入れる
- 農民(住民)として定住させる
- 精鋭兵として再編成する
という政策を行います。
こうして誕生したのが有名な「青州兵」です。
青州兵は後に曹操軍の主力となり、曹操躍進の原動力となっていきます。
また曹操は、
- 屯田制(兵士や農民に農業をさせる制度)
- 厳格な軍紀
- 能力主義の人材登用
などを行い、混乱した時代の中で安定した国家基盤を築いていきます。
袁紹 -圧倒的名門として君臨-

曹操のライバルとなる袁紹は、当時の中国でも最高クラスの名門「袁氏」の出身でした。
袁氏は「四世三公」と呼ばれ、四代にわたり三公(司徒・司空・大尉)を輩出した名門です。
そのため袁紹のもとには多くの人材や兵が集まり、
北方で勢力を拡大していく中で、北方最大勢力であった公孫瓚を滅ぼし、
四州(冀州・幽州・并州・青州)の支配に成功します。
当時の客観的な国力だけを見るなら、曹操より袁紹の方が圧倒的に有利と考えられていたのです。
曹操と袁紹の若かりし頃の逸話(世説新語)
後に宿敵となる曹操と袁紹ですが、若い頃は非常に仲が良かったことで知られています。
二人とも若い頃はかなりの遊び人で、奔放な性格でした。
有名なのが「花嫁泥棒」の逸話です。
これは『世説新語』などにも見える有名な話で、
二人が婚礼の場に忍び込み、花嫁を奪って逃げたというものです。
逃走中、袁紹が茂みに足を取られて動けなくなると、
曹操は突然、「ここに盗賊がいるぞ!」と大声で叫びました。
驚いた袁紹は必死に飛び起きて逃げたという話です。
この逸話からは、
- 曹操の機転
- 袁紹との気安い関係
などが見て取れます。
つまりこの逸話が事実であったならば、二人は青春時代を共にした旧友だったと言えるでしょう。
董卓討伐戦で決定的にすれ違う二人
袁紹を筆頭になかなか董卓に勝負を挑まない諸侯らに対して、
曹操は不満を募らせますが、それでも袁紹らが動く事はありませんでした。
理由は、
- 兵糧問題
- 董卓軍の強さ
- 各諸侯の思惑
など慎重的な思惑などもあったことでしょう。
その結果、諸侯らは酒宴ばかりの日々を過ごしていたのが現状でした。
そこで曹操は、鮑信(曹操を高く評価していた諸侯の一人)らの兵を一部率いて独断追撃を行いますが、
董卓軍を率いた徐栄 によって大敗してしまいました。
この敗北で鮑信の弟である鮑韜であったり、鮑信の部下であった衛茲らが討ち取られただけでなく、
曹操自身も流れ矢にあたって傷を負い、曹洪のお陰で命を落とさずに済んだという程だったといいます。
そんな流れの中で孫堅軍が陽人で勝利を収め、洛陽入城を果たすという流れになります。
荀彧の登場 -曹操最大級の転機-

曹操の勢力拡大で最も重要な出来事の一つが、荀彧を得たことでした。
荀彧は名門・潁川荀氏の出身で、当時から「王佐の才(帝王を補佐する才能)」を持つと評価されていました。
もともと荀彧は一瞬だけでしたが、袁紹陣営にいました。
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本来は冀州牧の韓馥(荀彧と同郷)に迎えられて冀州に向かった形でしたが、 荀彧が韓馥のもとへ辿り着いた時には、韓馥が袁紹に半ば強制的に冀州を奪われた後で、 その流れの中で袁紹に仕えたという流れです。 |
しかし荀彧は袁紹について、
- 優柔不断
- 決断力不足
- 器が狭い
などを感じ、将来性に疑問を持ったとされています。
そして荀彧は曹操のもとへ向かいました。
曹操は荀彧を迎えると、「わが子房である」と喜んだ事が「魏志」荀彧伝に残されています。
「子房」とは誰なのか?
「子房」とは、張良の字(あざな)です。
張良は漢王朝創始者の劉邦を支えた三傑の一人でした。
つまり曹操は、「荀彧は、私にとって張良のような存在だ」と言ったわけで、
曹操からの最高級の賛辞だったと言えるでしょう。
| 荀彧は何顒から「王佐の才」と評価された事でも知られていますが、
一方で何顒は荀彧を「我が子房」と評した曹操を「漢家將亡、安天下者必此人也。(漢王朝は今にも滅びようとしている。天下を安んじる事ができるのは、必ずこの人物であろう。)」と評したことでも知られています。ちなみにこれらの事は「後漢書」何顒伝に残されている記録です。 |
荀彧が曹操にもたらしたもの
荀彧の父親である荀緄は八龍の一人であると同時に、
曹操陣営の人材ネットワークの中心的な役割を果たした人物でもあります。
荀彧の推薦によって曹操のもとへ集まった人物には、
- 戯志才
- 郭嘉
- 荀攸
- 鍾繇
- 厳象
- 韋康
らがあげられ、そのことは「魏志」荀彧伝に残されています。
他にも裴松之が加えた注釈「荀彧別伝」には、以下の自分を曹操に繋げた事でも知られています。
- 司馬懿
- 陳羣
- 郗慮
- 華歆
- 王朗
- 荀悦
- 杜襲
- 辛毗
- 趙儼
- 杜畿
戯志才は早くに亡くなってしまいますが、
戯志才の後見的役割として推薦された郭嘉は、
様々な場面で曹操に的確な助言をし、烏丸討伐などで大活躍しています。
曹操が赤壁敗戦後に、
「郭嘉が生きていれば、こんな失敗をする事はなかったであろう」
と嘆いた逸話は非常に有名ですね。
荀彧最大の功績 -献帝擁立-

荀彧最大級の功績の一つとして挙げられる事は、献帝を曹操が保護するよう進言したことです。
当時、献帝は戦乱の中で保護者を失い、各地を放浪する危険な状態でした。
ここで荀彧は、「皇帝を迎えれば天下に号令できる」と曹操に提案します。
曹操は献帝を許昌へ迎え入れ、朝廷を保護しました。
これにより曹操は、
- 漢王朝を守る忠臣
- 朝廷を保護する正統勢力
という立場を獲得します。
これは極めて大きな意味を持ちました。
なぜなら当時はまだ、漢王朝の権威が非常に強かったからです。
つまり曹操は、「皇帝の命令」という大義名分を使って諸侯を攻撃できるようになったのです。
有名な「奉天子以令不臣(天子を奉じて不臣に令す)」という戦略です。
これは単なる武力ではなく、
- 正統性
- 政治力
- 官僚制度
を利用した極めて高度な国家戦略だったのです。
まさに曹操がこれらを追求していった結果、大きな力を獲得していくに至るわけです。
- 優秀な人材を見抜く力
- 能力主義
- 現実主義
- 柔軟な政治力
- 皇帝利用という戦略性
また北方で力を蓄える袁紹は、
名門ゆえの慢心・派閥対立等を抱えた中で、曹操との対立は大きくなっていきます。
そして二人は白馬・官渡での激突へと繋がっていくことになります。

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