曹操の魏公就任

これまでの曹操は三公を廃して丞相府を設置し、

曹操自身は丞相じょうしょうに就任していましたが、213年に魏公に任じられたのでした。

 

曹操が三公を廃止した理由はいくつかあるのですが、

司空・司徒・大尉と役割が三つに分かれており権力が分散されている状態でした。

 

権力が分散されているということは、

何かを決定する際にも時間を要することが多かったのです。

 

そこで曹操に丞相という形で権力を集中させたことで、

有事の際にも曹操の判断で常に迅速に行動できるようにしたのでした。

 

その為に三公を廃して丞相を作って、それに自分自身が就任していたわけですね。

 

 

丞相はあくまで漢王朝の中の役職にすぎず、

漢の領地を実際にもっているということではありませんでした。

 

実際はもう漢王朝の衰退によって、

既に力あるものが領地を切り取っていた時代ではあったのですけどね。

 

 

しかし魏公になったことで漢王朝の中でとはいえ、

「自分の国を曹操が手に入れる寸前ですよ」と宣言したようなものなわけです。

 

あくまで分かりやすい言い方ではありますけど、そんな感じになります。

 

 

あくまで形式的なものなので、既に曹操の領地みたいなものでしたけど・・・

献帝はあくまで傀儡化してる状態でしたからね。

 

そして曹操が魏公に就任したということは、

同時に漢王朝の滅亡が迫っていたということがいえたのです。

荀彧の死去

 

曹操の右腕と言ってもいいほどの人物であったのが荀彧ですが、

荀彧は戯志才・郭嘉・荀攸など数多くの優秀な人物を曹操に推薦したり、

 

戦いの中でも常に曹操を陰ながら支え続けていました。

 

 

形骸化していた献帝を擁立する事を強く勧めたのも荀彧でした。

 

荀彧の中で「漢王朝あってこその曹操」というのが前提にあり、

瀕死の漢王朝を救ってくれるのが曹操であると信じていたのです。

 

しかし曹操が魏公に就任したということで漢王朝の命運が尽きようとしているのは、

荀彧の目から見ても明らかに分かることだったわけです。

 

 

荀彧は魏公就任を強く反対はしたものの、

その声が最終的に曹操に届くことはありませんでした。

 

このあたりから曹操と荀彧の間には大きな溝が生まれ、

最後は自分の右腕さえも平気で切り落とすかのように邪魔になった荀彧を自殺に追いやりました。

 

 

ただ荀彧の最後には複数の説があり、

単純に病気の為に療養中に死去しただけだとも言われたりはしています。

 

どちらにしろ曹操が魏公に就任した213年の前年に荀彧は亡くなっていますね。

劉備・孫権の同盟関係に亀裂が入る

劉備が益州を手に入れた事で、

もともと劉備・孫権の間で約束されていた荊州南部の譲渡に関しての時期が到来します。

 

 

しかし諸葛亮の描く天下三分の計には荊州・益州の二つの州が必要であり、

 

荊州全土とまではいかなくても、

荊州南部を孫権に簡単に返すわけにはいかないといった事情もあったわけです。

 

 

劉備が益州攻略に成功した時も、孫権としては複雑な心境でもあったのです。

 

それは何故かというと、

益州を手に入れたいのは劉備だけでなく孫権もだったからですね。

 

なので一緒に益州を攻め、益州を分割した上で荊州を返してもらおうというのが

孫権の理想の形だったのです。

 

 

しかしその誘いを劉備は、

「私と劉璋殿は同族なので・・・」みたいな感じで断っていたにもかかわらず、

今度は同族など関係ないと言わんばかりに一人で攻め取ったからです。

 

劉備が益州攻略に苦戦している最中に援軍を送ろうとした際も、

「援軍無用!」と孫権につけ入るきっかけすら与えなかった徹底ぶりでした。

 

その上に荊州まで返さないとなったら・・・

 

 

赤壁の戦い時より続いた両者の同盟関係でしたが、

ここにきて二人の関係に亀裂が生じ、それから更に悪化していくのでした。

孫権、怒りの荊州侵攻&単刀赴会

益州と荊州南部を所有する劉備に対して、

荊州南部を返還するように使者を何度か出していた孫権でしたが、

 

劉備はぬらりくらりと話をはぐらかし、

「涼州を手に入れたら荊州南部を返すよ」という始末でした。

 

 

劉備が手に入れた益州と涼州の間には張魯が治める漢中もあり、

それすら攻略していない劉備が「涼州」という言葉を出したことは、

 

劉備には荊州南部を返す気がないと孫権は判断したわけです。

 

 

そして孫権は「劉備の野郎、調子に乗り過ぎだ!」と激怒し、

 

孫権の堪忍袋の緒がとうとう切れ、

呂蒙・魯粛らに命じて荊州を攻めさせました。

 

 

 

孫権が荊州に攻めてきたことを知った劉備は自ら援軍に出陣しますが、

 

魯粛が関羽を牽制している間に、

呂蒙が長沙郡・桂陽郡・零陵郡を制圧してしまったのでした。

 

 

更に「曹操が漢中の張魯を降した」という知らせが届きます。

 

益州の玄関口ともいえる漢中を曹操に攻略された事で、

「そのまま曹操が成都へ攻め込んでくるのではないか?」という不安がよぎり、

 

そんな中で孫権と荊州を巡って争っている事に危機感を覚えたのでした。

 

 

これにより劉備と孫権は和議を結び、とりあえず戦争は終結する事になります。

 

この時に呂蒙が奪った桂陽郡・長沙郡はそのまま孫権のものとし、

零陵郡のみが劉備に返される事となります。

 

またこの時に南陽郡の領有まで認められています。

 

このあたりは単刀赴会たんとうふかいという名場面として有名ですよね。

三国志演義と正史から見る「単刀赴会」での関羽と魯粛

 

 

三国志演義では関羽と魯粛の話し合いの結果、

劉備側が桂陽郡・長沙郡を返還したような記載がされていますけど、

 

実際は桂陽郡・長沙郡は既に呂蒙によって奪われていましたし、

逆に零陵郡を返してもらったという感じでした。

 

演義では相変わらず主人公だけあって、本当に劉備に都合よい描写がされています。

 

 

まぁつまり荊州南部を東西に分け、

東側を孫権に返上し、西側を劉備が治めたと考えて貰えれば分かりやすいですね。

 

しかし今回生じた亀裂は、

後にとりかえしのつかない事態へと進展していったのでした。

曹操の魏王就任

曹操が張魯を降して漢中を手に入れると、曹操は魏王に就任します。

 

これにより形式上は、漢王朝の中に曹操の国ができたことになるんですよね。

この時に曹操がつけた王号が「魏」になります。

 

後に曹丕が建国した「魏」はこれをそのまま引き継いだ形でだったわけです。

 

 

曹操が魏王になったことで、

荀彧が懸念していた漢王朝の滅亡にまた一歩近づいた事になります。

 

なんせ王の上と言えば、残りは皇帝の位しか残されていないわけで、

曹操が皇帝になることがあれば、それは完全に漢王朝の滅亡を意味していたからです。

 

 

ただここで結論を言ってしまうと、

曹操が皇帝になることはありませんでしたが、

 

上でも述べたように息子の曹丕が跡を継ぎ、

漢王朝から禅譲される形で、「魏」を建国して皇帝になったのでした。

動乱を駆け抜けた後漢最後の皇帝、献帝(劉協)