呂布の裏切り&董卓殺害

蒼天航路(7巻62巻)より画像引用

 

洛陽から長安に遷都した董卓でしたが、

遷都後も董卓の暴政は変わらず続いていきました。

 

しかしここで呂布によって董卓が殺害されるという事件が発生します。

 

 

呂布はもともと丁原に仕えており、

主君であると同時に親子の契りみたいなものを丁原と結んでいました。

 

呂布から見れば、丁原は養父にあたる人物だったのです。

それを董卓が洛陽入城した際に丁原を殺害して董卓に裏切っていたわけです。

 

董卓に寝返った呂布ですが、

今度は董卓と養父の契りみたいなものを結んでいました。

 

つまり呂布は、二度の親殺しをやってしまったのです。

 

呂布が裏切者の烙印を押された理由は、まさしくこれが原因ですね。

王允の暗躍

董卓の暴政に危機感を覚えていた王允(おういん)は、

どうすれば董卓を倒せるか考えていました。

 

王允と司徒という位についており、

司空・太尉と並ぶ三公の1つの重要な役職についていたわけですね。

 

 

王允は真っ向勝負をしても、董卓に返り討ちにされる。

ましてや武勇に優れた呂布がついていたのでは尚更厳しいと考えていたようです。

 

そこで王允は、「美女連環の計」という計略を用います。

 

「美女連環の計」とは、

「美女を使って董卓と呂布を仲違いさせ、呂布に董卓を討ち取ってもらおう」という計略になります。

 

 

まぁここはひとつ補足しておくと、

貂蝉ちょうせんという王允の養女を使って呂布と董卓の間を引き探訳ですけど、

 

実際は貂蝉なんて女性は存在しません。

 

 

これは三国志演義で作られた話であって、

正史では董卓と呂布の関係がぎくしゃくしていたのに王允がつけ込んだ形です。

 

そして普通に仲間に引き入れた感じですね。

 

実際は呂布が董卓の女と密通をしていたという話はありますから、

それが三国志演義で貂蝉という女性が作り上げられたという経緯になります。

連環の計

三国志演技での美女連環の計

上でも少しだけ書きましたが、

王允のもとには貂蝉(ちょうせん)という美女が養われており、

 

自分の娘のように育てていたようです。

 

 

王允の悩みを知った貂蝉は、自分自身が董卓と呂布の関係を切り裂き、

呂布に董卓を殺害させようとします。

 

董卓と呂布は見事に貂蝉の美貌に惚れ込んでしまいます。

 

そして計画通りにそこを王允に呂布は説得させられ、董卓殺害を成功させます。

 

その後の貂蝉はどうなったのかというと、

呂布に最後の最後まで付き従った感じになっています。

 

 

貂蝉は三国志演義だけでなく、

様々な変わった話などでも登場したりしていますからね。

 

華佗が貂蝉をサイボーグにしたって話もなかなかすごいお話です。

華佗作「貂蝉改造計画/サイボーグ貂蝉(ちょうせん)」

三国志正史としての美女連環の計

これも上で少しだけ触れていますが、

正史では演義でもお馴染みだった貂蝉は出てきません。

 

 

しかしこの話が、「完全な嘘!?」かというとそうではないです。

 

実際に「呂布が董卓が囲っていた侍女と密通をしていた」

という記載が残っているんですよね。

 

ただその女性が誰なのか名前などは全くもって残っていません。

 

 

それにより董卓と呂布の二人の関係に亀裂が生じ、

王允によってそこをつけこまれたのは少なからず正しいでしょうからね。

 

それにしても中国四大美女呼ばれる中に、

ちゃっかりと貂蝉が含まれているのも面白い話です。

  • 西施(春秋(呉越))
  • 王昭君(前漢)
  • 貂蝉(後漢/三国時代)
  • 楊貴妃(唐)

 

だって他の三名が実在している人物にも関わらず、

実際には存在していない貂蝉が入れられている事が不思議な感覚です。

 

 

ただ「貂蝉が実際に存在していたのかいなかったのか」なんてことは、

中国の人達にとってはどうでもいいことなのかもしれませんね。

 

「三国時代に董卓と呂布を惑わせた美女」として、

多くの人達に愛されているからこそ、実在の人物であるかのように扱われているのでしょう。

 

 

関羽に生涯付き従った周倉なんかもそうですよね。

 

周倉は架空の人物であるにも関わらず、

人々から愛された結果、関帝廟の傍らに関平と共に周倉の像がおいてあったりしますから・・・

周倉 -物語から現実世界へ飛び出した忠義の士-

王允の三日天下

董卓を討ち取り、そのまま呂布を従えた王允が、

平穏に天下を治めたわけではありません。

 

王允は董卓の一族や息のかかったものを容赦なく静粛していきます。

 

董卓が殺害された当時、

西方にいた李傕・郭汜は当初降伏を考えていたようです。

 

ですが王允が降伏を認めようとしなかった為に、結局反撃にあってやられていますから・・・

 

 

降伏を蹴られた李傕・郭汜は逃げようと考えていたら真ですが、

「逃亡して逆賊扱いされるぐらいなら、長安を強襲しましょう!

 

もし失敗したらそれから逃げればいいし、

もし成功したら董卓に代われる存在になれますよ!!」と賈詡が進言しています。

 

 

これを聞いた李傕・郭汜は「確かに!」と納得し、

賈詡の助言を聞いて長安攻撃を開始するわけですけど、これが見事に成功したわけです。

 

これにより王允・呂布軍は破れ、王允は処刑され、董卓は逃亡しています。

三日天下と書いていますが、実際は三日ではないのは悪しからず・・・

 

実際は2カ月程度は粘っています。

王允と呂布の関係は、早くも冷え切っていた?

董卓殺害に協力した二人でしたが、

王允は呂布を心底信用はしていなかったのはあったようです。

 

呂布も自分の功績を自慢することも多く、

お互いの関係は董卓殺害後、急速に冷え込んでいっていました。

 

そこを李傕・郭汜軍の長安強襲にあって破れてしまったと言われています。

 

 

ただここで呂布は、王允に「一緒に逃げよう」と言葉をかけています。

 

ですが、王允は、「国家の安定が実現されない中、

私だけが幼い献帝を残して、一人だけ逃げる事はできない。」

と呂布に言葉を返したと言われています。

 

 

このやりとりを見る限りは、

二人の関係が冷え込んでいたと一概には言えないかもしれません。

 

ただ王允は少し頑固な面があったのも確かでしょうね。

 

 

実際董卓に仕えていた名士である蔡邕を殺したりしたことなど、

やってはいけないことを自分の信念から貫いた結果、それが悪い方に働いた可能性も十二分にあるからです。

 

王允という人物は結構この性格から過去何度も殺されかけたりしたことがありますから・・・

 

 

李傕・郭汜のことでもそうですが、

降伏を認めなかったばかりに逆に滅ぼされてしまってますからね。

 

そういう点を見ても、王允・呂布政権があっさりと潰えた原因としては、

二人の仲が悪くなったというよりも王允が頑固すぎたという面が大きい気がします。

李傕・郭汜の仲違い&献帝の長安脱出

長安を手中に治める事ができた李傕・郭汜でしたが、

二人は次第に争うようになっていきます。

 

その後、和議を結んだんですが、

この仲介役を引き受けたのは、張済ちょうさいという人物でした。

 

その和議条件として出された条件が、

「献帝を長安から脱出させる」というものでした。

 

ですが、途中で李傕・郭汜が献帝を再度捕らえて長安へ戻そうと考えたようです。

しかし献帝を捕まえる事はできずに逃がしてしまいます。

 

 

献帝がなんとか長安脱出をした後、

賈詡は李傕・郭汜の元を去り、張済の甥である張繍ちょうしゅうの元へ訪ねます。

※張済も張繍も董卓軍残党です。王允

乱世の狭間を上手に生き抜いていった張繍

 

実際は段煨だんわいという人物の元を経て、

最終的に張繍の元に言っているんですが、ここではあえて触れません。

 

献帝を逃がしてしまった李傕・郭汜ですが、二人には滅びの道へ突き進んでいくのでした。