曹操が献帝を迎え、許昌に都を移す

荀彧から提案があったことにより、

曹操は洛陽から脱出していた献帝を迎えています。

 

 

実際は早くから献帝を迎えようと動いていた曹操でしたが、

 

献帝に付き従っていた董承によって、

この時期がだいぶ遅くなってるのは秘密です(笑)

 

 

結構知られていないんですが、董承って結構腹黒い人物なんです。

 

ほとんどの人が董承って聞けば、

後に献帝の為に曹操殺害計画をたてた忠臣ってイメージが強いと思いますけど、

 

実際は結構違うんですよね。

 

 

そして後漢末期のこの時代、黄巾の乱・董卓の横暴等を見ても分かるように、

皇帝の権威は完全に形骸化していました。

 

だけれども皇帝を抱える事の最大のメリットは、

腐っても皇帝という大義名分を掲げる事が出来る点なんです。

 

それを誰よりも早く曹操を迎える事に成功したのです。

 

袁紹なんかは皇帝の権威など意味もないといわんばかりに、

領地拡大のみに集中してるぐらいでしたから・・・

 

 

ただ旧都である洛陽は、董卓によって廃墟にされており、

これを復興させるには莫大な資金と時間が必要という現実があったんですよね。

 

ただこの時の曹操は、洛陽復興にそれだけの資金を費やせる余裕がなく、

そこで曹操は、自分の治めている領地の許昌に都を移す形をとります。

 

これにより短期間に、洛陽→長安→許昌と都が転々としたことになったのです。

 

 

ただ廃墟ではないとはいえ許昌を都にし、

皇帝を迎えるとなれば、宮殿などを一から作らなければいけないことを意味していました。

 

もちろんですが、それを用立てる術は献帝側になく、

全て曹操が負担して建設しています。

 

そして許昌が都として生まれ変わったわけですね。

動乱を駆け抜けた後漢最後の皇帝、献帝(劉協)

曹操、大将軍に任じられる

何度も書いていますが、皇帝の権威は形骸化していましたが、

様々な要職を与えたりすることは普通に可能でした。

 

まずは曹操自身を大将軍に、

曹操の配下を沢山の重要な役職に任命してもらいます。

 

これにより形骸化してしまっていた皇帝の権力も、

曹操に要職を与える事で代理的に蘇り、献帝としてのメリットも大きかったのです。

 

 

皇帝はそうすることで自らの意味合いを天下に改めて知らしめることができ、

曹操が権力を手に入れ活躍すればするほど、

 

「曹操に擁立された献帝の権威も自然とあがるのではないか!?」

というふうな構図が自然と生まれたわけですね。

袁紹の曹操に対する嫉妬

反董卓連合盟主もつとめ、かつては親友であった袁紹は、

曹操が大将軍に任命されたことに対して大きな嫉妬心を抱きます。

 

袁紹にとって曹操は格下の人物と見ていた為に、

自分より上の将軍職に任じられたことでプライドが許さなかったのでしょう。

 

 

袁紹自身も後漢の皇帝の権威は、

完全に地に落ちたと思っていただけに、袁紹にとっては思いがけない感情でした。

 

 

家柄的にも明らかに曹家より袁家の方が名門ですし、

 

反董卓連合の際も自分の部下として参加していたぐらいなのに、

そんな中での大将軍ですから・・・

袁紹、大将軍になる

そんな中で袁紹の元へ、

皇帝使者として三公である大尉へと任命されます。

 

袁家が代々ついてきた三公なので決して悪い官職ではないんです。

 

 

しかし献帝から大尉任命の使者がきたということは、

間接的に曹操によって命じられたという方程式が成り立つわけですよね。

 

つまりそれはどういうことが言えるかというと、

袁紹が曹操の下につくことになることを意味していたのでした。

 

 

それがどうしても許せなかった袁紹は、

どうにかならぬものかと袁紹は曹操と駆け引きをやったようです。

 

結果として、そこまで大将軍にこだわりがない曹操は、

大将軍を袁紹に譲る形になります。

 

 

これには曹操にも考えがあり、

今は袁紹と戦う時ではないと思っていたということが理由でもあるんですが、

 

その為に袁紹の機嫌を無駄に損ねないように、あっさりと袁紹に大将軍を譲った感じでした。

 

そして曹操は袁紹との直接対決を避けつつ、

呂布や張繍といった勢力を駆逐していき、更に勢力を拡大していきます。

白馬・官渡の戦いと袁家の滅亡

二人の関係は袁紹が大将軍に、

曹操が司空になることで落ち着いたものの、

 

勢力拡大を目指す二人は、自然と激突する方向へ向かっていきました。

 

そして遂に曹操と袁紹両軍が白馬・官渡で激突することとなったわけです。

 

 

序盤は兵力に勝る袁紹軍が優勢でしたが、

最終的に曹操軍が袁紹軍を敗走させることで決着がつきました。

 

 

ただ白馬・官渡の戦いで敗れてしまったとはいえ、

それでも袁紹の力はまだまだ強力だったこともあって、

 

曹操は勢い任せで袁紹領地に本格的に攻め込む事はなかったのです。

 

 

白馬・官渡の戦いは、

あくまで袁紹が攻めてきたからこその戦いでもあったからです。

 

だからこそその戦いで勝利を収めたとはいえ、

苦しんだ上での最終的な勝利だっただけに袁紹を甘く見ることはありませんでした。

 

 

しかし袁紹が病死してしまうと状況は一変します。

袁譚えんたん袁尚えんしょうによる後継者争いが起こった事で家臣団まで二つに分裂してしまったのです。

袁譚・袁煕・袁尚 -袁家滅亡を加速させた袁紹の遺児達-

官渡の戦いで勝利の立役者になった許攸

 

それを優しく見逃す曹操ではなく、そこにずかずかとつけ込んでいきます。

 

これにより袁譚・袁尚領地は全て曹操に奪われ、

袁家は滅亡してしまう事となったのでした。