大将軍(曹操から袁紹へ)

曹操は献帝を許へ迎え入れたことで、
「天子を奉じて諸侯を令する」という大義名分を手に入れました。
後漢王朝の実権はすでに大きく衰えていましたが、
皇帝の権威そのものが完全に消滅していたわけではありません。
朝廷には依然として、
- 官職の任命
- 爵位の授与
- 詔勅の発布
といった政治的権威が残されていました。
曹操はこれを巧みに利用し、自身や配下を朝廷の要職へ就けていきます。
そしてこれは曹操が献帝を迎えて許を都とする少し前の話ですが、
曹操は録尚書事・司隸校尉に任じられた事が「魏志」武帝紀&裴松之注「献帝春秋」に残されています。
それから間もなく(許を都とした後に)、大将軍に任命されたという流れになります。
しかし曹操が大将軍に任じられたことを聞いた袁紹は、曹操の下につく形に不満を募らせます。
当時の官制では、
- 大将軍
- 三公(司徒・司空・太尉)
の順で、大将軍の方が実質上位の立場だったからですね。
つまり曹操が大将軍になったことで、袁紹 は形式上は曹操の下位に置かれる形になります。
袁紹は四世三公の名門出身であり、曹操が自分より上位に立つことを屈辱と感じたのでしょう。
ただ曹操は袁紹との対立を避けるため、自ら大将軍職を袁紹に譲ります。
その結果、次のような形に収まったのでした。
- 袁紹 → 大将軍
- 曹操 → 司空
曹操と袁紹の対立激化
- 河北最大勢力となった袁紹
- 朝廷を掌握した曹操
という二大勢力が並立したことで、両者は次第に対立していきます。
特に問題となったのは、
- 献帝を巡る主導権
- 黄河流域の支配権
- 河北・中原の覇権
でした。
袁紹は公孫瓚を滅ぼして河北を統一し、圧倒的な兵力を誇るようになります。
一方の曹操も呂布討伐・張繍の服属させ、豫州・兗州支配をを進め、中原支配を固めていました。
こうして両者の衝突は避けられなくなります。
そして白馬戦・延津戦を経て、官渡の大決戦へと向かう事となるのでした。
白馬の戦い&延津の戦い&官渡の戦い
建安五年(200年)、ついに袁紹は大軍を率いて南下し、曹操との決戦に臨みます。
しかし白馬の戦いでは、顔良が関羽によって討たれ、
延津でも文醜が討死して、曹操軍優勢で戦いは進んでいるかのように思えましたが、
それでも圧倒的兵力を誇る袁紹に対して、曹操は官渡でも劣勢を強いられる事となります。
ただ袁紹軍は大軍ゆえに補給維持が困難であり、さらに内部対立も抱えていました。
一方の曹操は兵力では劣るものの、軍の統率や迅速な意思決定に優れていました。
そして許攸の離反によって袁紹軍の補給基地・烏巣の情報を得た曹操は、奇襲を敢行します。
これに成功したことで袁紹軍は総崩れとなります。
官渡の勝利は、曹操が中原の覇者へ成長する決定的転機となったのでした。
袁家の滅亡

官渡で敗北した後も、袁紹勢力はすぐには滅びませんでした。
実際には河北四州を支配する巨大勢力であり、依然として曹操にとって最大級の敵でした。
しかし建安七年(202年)、袁紹が病死すると状況が激変します。
後継者問題によって、
- 袁譚(長男)
- 袁尚(三男)←袁煕(次男)も味方
ら兄弟が争いを始め、配下の者達も分裂しました。
曹操はこの内紛を巧みに利用し、段階的に袁家勢力を各個撃破していきます。
その結果、
- 鄴の陥落
- 河北平定
- 烏桓討伐
へと繋がり、袁氏勢力は完全に滅亡しました。
これにより曹操は、後の魏建国へと繋がる基盤を完成させたのです。



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